からだの中で供給を受ける ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント12:14 体は一つの肢体ではなく、多くの肢体から成っています。 (15節)もし足が、「わたしは手ではないから、体に属していない」と言ったとし ても、それで体に属していないわけではありません。(16節)またもし耳が、「わ たしは目ではないから、体に属していない」と言ったとしても、それで体に属し ていないわけではありません。(17節)もし体全体が目であるとしたら、どこで聞 くのでしょうか? もし全体が聞くとしたら、どこでかぐのでしょうか? (18 節)しかし今、神は各肢体を、それぞれ体の中に、彼の欲するままに置かれまし た。 1ヨハネ1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩 くなら、わたしたちは互いに交わりを持ち……。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― わたしとかしらとの関係は服従であり、わたしとからだとの関係は交わりです。 神の子供たちの間で交わりを持つことは、一つの実際であり、また必要でもあり ます。キリストのからだの命は交わりにかかっており、交わりがなければ死んで しまいます。交わりとは何でしょうか? 交わりとは、わたしが別の肢体から助 けを得ることです。例えば、わたしが口であれば、語ることができます。しかし、 耳との交わりがあってはじめて、聞くことができます。目との交わりがあっては じめて、見ることができます。手との交わりがあってはじめて、物を取ることが できます。足との交わりがあってはじめて、道を歩むことができます。ですから 交わりとは、わたしが他の人の持っている特別な点から益を受けることです。 あるクリスチャンは、交わりの原則を知らないので、自分一人で霊性を追い求め、 自分一人で祈ります。あらゆる事を自分一人で行ない、口にもなり、耳にもなり、 手にもなり、足にもなるのです。しかし、主を知っている人は、このようではあ りません。彼らは交わりを必要とします。交わりとは、わたし自身には限りがあ り、わたし自身では足りないことを認めることです。交わりとは、他の人の持っ ているものを自分のものとして喜んで受け入れることです。 交わりとは、単なる教理ではなく、実際です。経験から言って、しばしばわたし たちは、体の具合が悪かったり、あるいは別の事情のために、よくよく祈ったり 聖書を読んだりすることができません。そうであれば、わたしは失敗するでしょ うか? わたしは倒れるでしょうか? いいえ。なぜなら、からだの命から供給 があるからです。多くの神の子供たちはみな、同じような経験を持っています。 一度、二度ではなく、何度もです。わたしたち自身の状態から言えば、わたした ちは弱いのですが、神はわたしたちを乗り越えさせてくださいます。それはキリ ストのからだにある互いの供給によってです。ある人は祈ります、「どうか神が ご自身のすべての子供たちに恵みを賜りますように」。命がからだの別の肢体か らあなたの上に流れてくるので、あなたは支えられるのです。からだの命があな たの中に流れてきて、あなたを乗り越えさせてくださるのです。わたしたちは単 に自分の命によって生きているのではなく、からだの命によって生きていること を、認識するべきです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第5編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。