外側で知るのではなく、内側ではっきりと知る(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ21:12 イエスは彼らに、「来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟 子たちはだれも彼に「あなたはどなたですか?」とあえて問う者はいなかった。 主であることを知っていたからである。 2コリント5:16 ……たとえキリストを肉にしたがって知っていたとしても、今 はもはや彼を、そのように知ろうとはしません。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 弟子たちはだれも、彼がだれであるか、あえて尋ねようとはしませんでした。主 であることを知っていたからです。あなたは、この言葉は非常にあいまいである と感じないでしょうか? 彼らは、外側ではこの方がだれであるかを依然として 考えていましたが、内側ではそれが主であることを知っていたのです。彼らは次 のように言ったかもしれません、「わたしは彼の顔を見ても、彼がわかりません。 わたしは彼の声を聞いても、彼がわかりません。思いの中では、彼がだれである のかを彼に尋ねてみたいです。しかし心の中では、わたしは彼に尋ねる必要はあ りません。なぜなら、彼が主であることを、わたしはすでに知っているからです」。 一方ではあなたは何もわかりませんが、もう一方ではあなたは非常にはっきりし ているという経験を、あなたは今まで持ったことがあるでしょうか? これは、 多くのクリスチャンが経験することです。わたしたちは、多くのことについては っきりしておりませんし、多くのことについて戸惑いますが、同時に、わたした ちは非常にはっきりしているのです。これが啓示の意味です。啓示によって主を 知る人たちは幸いです! 外側の知識は、内側の啓示に取って代わることはできません。わたしたちは、主 に対する内側の認識を持たなければなりません。いったんわたしたちが内側の認 識を持てば、だれもわたしたちを動揺させることはできません。どうか主がわた したちの目を開いてくださり、目が開かれなければ認識できないものを認識させ てくださいますように。わたしたちの思いや感覚では、肉体にあるイエスを知る ことができるだけです。このような知識は、わたしたちにとってあまり役に立ち ませんし、わたしたちにどんな力も与えません。どうか主が真に御子をわたした ちの中に啓示してくださいますように。そうすれば、わたしたちは内側が鮮明に なり、内側の認識と理解力を持ち、内側でどんな疑いも持つことがありません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第1編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。