義を学ぶ(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ5:6 義に飢え渇いている人たちは幸いである。彼らは満ち足りるからで ある。 1テサロニケ2:10 わたしたちが、どのように聖く、義しく、責められるところ がないように、信じるあなたがたに対して振る舞ったか、あなたがたが証人であ り、神も証人です。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) わたしたちは義の道を通して入りました。この義の道によって、わたしたちは救 われました。この結果、わたしたちはクリスチャンとして必ず義を学ぶ必要があ ります。わたしたちはどんな事にも不注意であることはできません。神がわたし たちを救われるに際して、彼は義であったので、わたしたちは義でなければ神と 適合しません。 義であるとはどういう意味でしょうか? 義であるとは、他の人に対して何の借 りもないということです。もらうのに値しないものを受け取ることを拒否するこ とであり、与えてはならないものを人に与えることを拒否することです。繰り返 して言えば、神はご自身に関して不義ではないのですから、神に属しているわた したちもまた不義であることはできません。わたしたちは、だれに対しても何の 借りも持つことができません。わたしたちが正当なクリスチャンであるかどうか、 また成長するかどうかは、わたしたちが救いの門に入った時の、義に対するわた したちの見方と感覚にかかっています。いわゆるクリスチャンたちが全く義の意 識に欠けているのを見ることは、わたしたちの心を痛めます。彼らは、自分が不 義なことをしたという感覚が全くありません。クリスチャンになってから一度も 他の人に謝罪したことのない人もいます。彼らが一度も謝罪しなかった理由につ いては、二つの可能性しかありません。彼らはいつも正しく、間違ったことがな いか、あるいは、間違っていたのに自分の間違いを告白しないかのいずれかです。 主よ、あわれんでください。わたしたちが、自分は決して間違っていないと思い 違いをすることがありませんように。どうかわたしたちが、かたくなな心のゆえ に、あるいは面目を保つために、告白をおろそかにすることがありませんように。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第36巻「中心的なメッセージ」(1998年版)メッセージ第 3編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。