自分自身を罪人と考えない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント1:30 しかし、あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは、神に よるのです。このキリスト・イエスは、わたしたちに至る神からの知恵、すなわ ち、義と聖別と贖いとなられました。 へブル10:17 それから彼は言われます、『わたしはもはや彼らの罪と不法を決 して思い出さない』。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― わたしたちが主イエスを救い主として受け入れる時、神はわたしたちを、一度も 罪を犯したことのない者のように見てくださいます。わたしたちの罪が主によっ て赦されているにもかかわらず、自分がいまだに罪人であり、神の御前での自分 の地位について確信がないと考えてはなりません。神に感謝します。神はわたし たちをキリストの中に入れてくださいました。わたしたちは一度も罪を犯したこ とがないかのように、大胆に神の御前に立つことができます。キリストがわたし たちの義です。 わたしたちが神に来る時に大胆さを失うのは、わたしたちが自分自身を見つめる からです。わたしたちが神を見ることを恐れるのは、わたしたちがキリストを見 ていないからです。自分を見るのではなく、ただキリストだけを見るなら、神に 来る時はいつでも、わたしたちは大胆でいられます。キリストは決して失敗しま せん。ですから、わたしたちは神の御前で決して間違うことはありません。神に 感謝します。わたしたちの義は揺らぐことはありません。わたしたちの義は、永 遠に揺れ動くことがありません。もしだれかがわたしたちに、クリスチャンの行 為、熱意、愛は変わることがありますかと尋ねるなら、わたしたちは「そうです」 と答えます。もしわたしたちが「そうではありません」と答えるのなら、わたし たちは自分自身を欺いています。しかし、わたしたちの義は決して変わることは ありません。なぜなら、わたしたちの義はキリストだからです。救われるために、 わたしたちは自分の行ないに頼ることができないのと同じように、クリスチャン になった後、神に来る時、わたしたちは自分の行ないには頼れないことを、どう か主がわたしたちの目を開いて見せてくださいますように。これは、わたしたち は自分の行ないにおいていい加減であってよいという意味ではありません。これ については、次の章で話します。この章では、わたしたちが神に来る手段を取り 扱います。神に来る手段は、わたしたちの義としてのキリストです。わたしたち はキリストによって神に来ます。このことは永遠に揺れ動くことなく、永遠に確 実なことです。ハレルヤ! ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第36巻「中心的なメッセージ」(1998年版)メッセージ第 3編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。