キリストを模倣しようとしない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ガラテヤ2:20 わたしはキリストと共に十字架につけられました。生きているの はもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。 そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのた めにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― これは福音です。神は、あなたが決心して善を行なうことを求めません。神は、 キリストがあなたの中で生きることだけを求められます。神が注意されるのは、 善を行なうか行なわないかの問題ではなく、だれが善を行なうかの問題です。神 は、善であればそれでよいとは言われません。神は、だれが善を行なうかを問わ れます。 ですから、神の方法は、わたしたちにキリストのまねをさせるとか、キリストと 同じように行なわせることではありません。またわたしたちがキリストと同じよ うに行なうことができるよう、主にひざまずいて力を与えてくださいと求めるこ とでもありません。神の方法は、「生きているのはもはやわたしではありません。 キリストがわたしの中に生きておられるのです」ということを経験することです。 この違いがわかりますか? キリストの生活に倣うのではなく、またこの生活を するために力を与えられるのでもありません。あなた個人が生きるのではありま せん。神は、あなた個人を神の御前で生きさせるのではありません。あなたは自 分で神の御前に来るのではなく、あなたの内に生きておられるキリストを通して 神の御前に来るのです。わたしたちがキリストに倣うのではなく、わたしたちが キリストの力を得るのではなく、キリストがわたしたちの中で生きられることで す。 これが信者の生活です。信者の生活は、わたしが生きることではなく、キリスト が生きることです。もともとはわたしが生きていて、キリストではありませんで した。しかし今日、わたしが生きるのではなく、キリストが生きられるのです。 別の方がわたしに代わって生きるために来られたのです。ですから、「生きてい るのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるの です」と言うことができない人は、何がキリストの教えなのか、何がキリストの 命なのか、何がクリスチャンの生活なのかを知らないのです。その人は、「わた しが生きるのではない。キリストが生きられるのである」という境地に至ること を願っているだけなのです。しかし、パウロはこの程度にまで至ろうと努力して いると言っているのではありません。パウロは、これが自分の生き方であると言 っているのです。パウロの生き方は、自分が生きることではなく、キリストに生 きていただくことです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第49巻「初信者を成就するメッセージ(二)」(1999年版) メッセージ第26編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。