時間によって欺かれない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ヨハネ1:7 ……御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めます。 ヨハネ8:24 ……あなたがたは、『わたしはある』を信じないなら、自分の罪の うちに死ぬ。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ある人は次のように尋ねるかもしれません、「どうして主イエスの血がわたした ちをすべての罪から清めることができるのですか?」。わたしたちはその人に、 主イエスが十字架にかかって、罪の代価を支払ってくださったことを告げます。 わたしたちの罪は、彼が流してくださった血によって清められました。しかし、 またある人たちは、理解できずに次のように尋ねるかも知れません、「どうして このことがあり得るのですか? 主イエスは千九百年以上も前に十字架につけら れたのです。主が死なれた日に、わたしはまだ生まれてさえおらず、一つも罪を 犯していませんでした」。兄弟姉妹よ、あなたがこのような問題に出会った時に は、どのように答えるべきでしょうか? このような問題に出会った場合には、 人々が時間の概念を持ち出しているということに気づかなければなりません。し かし、主の十字架は時間を超えたものです。人々が時間という概念を持ち込むと、 十字架を理解する道はなくなってしまいます。 わたしたちは、キリストが今おられる方であるということを覚えておく必要があ ります。神には、過去と未来の区別はありません。神にあるのは、いつも今日で す。神は永遠から永遠までおられる方です。神は今おられる神です。もしわたし たちが自分の概念の中に時間というものを持ち込むなら、神と交わることはでき ません。ギリシャ語原文の新約聖書を見るなら、ヨハネの第一の手紙第1章7節が 現在時制になっていることがわかるでしょう。そこでは、神の御子イエスの血が 過去のわたしたちのすべての罪を清めたとは言っていません。また、御子イエス の血が、将来のわたしたちのすべての罪を清めるであろうとも言っていません。 わたしたちのすべての罪は、今、清められているのであって、過去でも未来でも ありません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第36巻「中心的なメッセージ」(1998年版)の「キリスト は道、真理、命である」メッセージ第4編から引用されています。いずれも日本 福音書房から出版されています。