キリストに属する事柄が必ずしもキリストであるとは限らない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、実際であり、命であ る。わたしを通してでなければ、だれも父に来ることはない。」 ヨハネ8:32 またあなたがたは真理を知る。そして真理はあなたがたを自由にする。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 以前、ある兄弟が別の兄弟に罪を犯しました。その罪を犯された兄弟は我慢でき なくなって、その兄弟をどなってしまいました。どなった後、良心に不安を覚え、 行ってその兄弟にわびるべきであると感じました。しかし、その兄弟が自分に罪 を犯したことを思うと、思えば思うほど腹が立ってきたものの、やはりわびるべ きだと感じました。そこで、その兄弟に手紙を書こうと思い、ペンを取って次の ように書きました、「今あなたをどなってしまい、すみませんでした」。ところ が、あの兄弟があのように罪を犯したのは悪いことであると思うと、またもや腹 が立ってきます。彼を憎み、心の中でやはり腹を立てます。書き終わってから郵 便局に行く時も、まだ腹を立てています。 表面的に見れば、この一通の手紙はいかにもクリスチャンの書いたものです。し かし、わたしたちは知っていますが、これは教理の結果にすぎず、命の結果では ありません。彼は手紙を書いて罪を告白したものの、心の中ではやはり腹を立て ています。兄弟姉妹よ、この違いがわかりますか? 主は真理です。わたしたち の行なうことが、もし教理であって主ではないのでしたら、それは死んだもので す。わたしたちは知らなければなりませんが、すべて霊的な事は、主があってこ そ生きており、主がなければ死んだものです。主がわたしたちの内で光を放ち、 わたしたちの中で働かれる方となり、わたしたちが内側でこのことを認識する時、 わたしたちの持っているものは生きたものとなります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第36巻「中心的なメッセージ」(1998年版)メッセージ第 1編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。