あらゆる事において、またいっさいの事柄において ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ4:12 わたしは卑しくなる道を知り、また豊かになる道も知っています。 あらゆる事において、またいっさいの事柄において、わたしは飽くことにも飢え ることにも、豊かであることにも乏しくあることにも、秘訣を学びました。(13 節)わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行なうこ とができるのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 12節でパウロは、「あらゆる事」(everything)と「いっさいの事柄」(all things) という、パズルのような表現を使っています。「あらゆる事」と「いっさいの事 柄」との相違は何でしょうか? わたしたちは一度に一つの事を経験します。わ たしたちは一度にいっさいの事柄を経験することはできません。ですから、時間 の中でのわたしたちの経験によれば、それはあらゆる事です。しかし、長い期間 にわたるさまざまな経験の後、あらゆる事はいっさいの事柄となります。 わたしたちは、ピリピ人への手紙は経験にしたがって書かれたことを思い起こす 必要があります。時間の中でわたしたちは一つずつ経験します。この事実は、 「あらゆる事」という言葉によって示されます。しかし、長期にわたる経験の後、 あらゆる事はいっさいの事柄となります。「あらゆる事において」という言葉は、 わたしたちが主について経験する一つの特定の時のことを言います。「いっさい の事柄」という言葉は、一定の期間にわたる経験の幅広い範囲のことを言います。 パウロはある特定の事例といっさいの事例において、特定の時と彼の生涯の行程 を通して、秘訣を学んだと言うことができました。パウロは瞬間瞬間、キリスト を経験しました。一方において、パウロはキリストを特定の事柄において、特定 の時に経験しました。他方において、彼はいっさいの事柄において、いっさいの 時にキリストを経験しました。 キリストの経験に関してそのような言葉を受けることは、何という祝福でしょう!  わたしの望むことは、若い人たちが特に、自分たちがいかに祝福されているかを 認識し、そして次のように祈ることです、「主よ、わたしの若い時でさえ、わた しはあなたを尋ね、あなたを追い求め、ピリピ人への手紙に提示された方法であ なたを経験したいのです。キリストの正常な経験と享受に関するかぎり、わたし は今日のパウロでありたいです。わたしは、キリストのための偉大な使徒、伝道 者、働き人になることを求めません。しかし、わたしはあらゆる事において、日 ごとに、いっさいの事柄において、わたしの全生涯にわたって、あなたを経験し、 あなたを享受する正常なクリスチャンであることを願います」。どうかわたした ちみながそのような程度にまでキリストを享受することを切望しますように。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(三)」(1981年版)メ ッセージ29から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。