義なる、純粋な、愛らしい生活 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ4:8 最後に、兄弟たちよ、何であれ真実なこと、何であれ誉れあること、 何であれ義なること、何であれ純粋なこと、何であれ愛らしいこと、何であれ好 評なこと、またもし何らかの徳があり、何らかの称賛があるなら、これらをよく よく考慮しなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 8節でパウロはまた、「何であれ義なること」について語ります。これは、神と 人との前で義であること(正ではない)を言っています。義なることを行なうのは、 キリストを生きることに関係あるもう一つの支配的な面です。「何であれ純粋な こと」という表現の中の純粋という言葉は、意図と行ないにおいて単純で、何の 混じり気もないことを意味します。このように純粋であることは、何の見せかけ も持たないことです。純粋であることもやはり、キリストを生きる生活の一つの 支配的な面です。 しかしながら、そのような生活のさらにもう一つの支配的な面は、「何であれ愛 らしいこと」です。「愛らしい」という言葉は、愛すべき、同意できる、愛情を 抱かせる、を意味します。次にパウロは進んで、「何であれ好評なこと」を述べ ます。これは、何であれ良い評判のあること、名声のあること、魅力あること、 人の心を捕らえること、上品なこと、を意味します。ギリシャ語は、「良く思わ れる」を意味します。 8節でパウロは、親切、忍耐、聖潔を挙げていません。そうではなく、彼はキリ ストを生きる生活の支配的な面である六つの項目を挙げています。もしキリスト を生きるなら、わたしたちは確かにこれらすべての面の表現である生活を持つで しょう。わたしたちの生活には何の虚偽も、だらしなさも、軽薄さもないでしょ う。そうではなく、わたしたちの生活は、誉れある、純粋な、義なる、愛らしい、 好評なものとなるでしょう。パウロはクリスチャンの多くの美徳の中から、支配 的な面としてこれらの六つのものを選びました。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(三)」(1981年版)メ ッセージ28から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。