キリストを追い求めることは規範である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ3:13 兄弟たちよ、わたしはまだ自分自身、捕らえたとは思っていません。 ただ一つの事、すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体 を伸ばしつつ、(14節)キリスト・イエスの中でわたしを上に召してくださった神 の賞を得るために、目標に向かって追い求めています。(15節)こういうわけで、 成人した者はみな、この思いを持とうではありませんか。また、もしあなたがた が別のことを思っているなら、神はこれをも、あなたがたに啓示してくださるで しょう。(16節)しかしながら、わたしたちが到達したところにしたがって、同じ 規範によって歩こうではありませんか。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 16節の「歩く」というギリシャ語は「ストイケオ」です。それは整然と歩くこと を意味します。それは「ステイコー」から派生した語で、規則正しく整列する、 軍列の中で行進する、歩調を合わせる、美徳と敬虔へと同形化するの意味であり、 ローマ人への手紙第4章12節、ガラテヤ人への手紙第5章25節、第6章16節で使わ れています。この言葉によって使徒は、わたしたちが同じ規範によって、同じ路 線の中で、同じ進路に、同じ足跡を踏んで、わたしたちが到達したところにした がって、わたしたちが到達した状態において歩き、わたしたちの生活を秩序づけ るよう命じています。わたしたちが霊的生活において到達したところがどの状態 であっても、わたしたちはみな、使徒が行なったように同じ規範によって、同じ 道を歩かなければなりません。すなわち、目標に向かってキリストを追い求めな ければなりません。それはわたしたちが、上からの神の召しの賞として、キリス トを極みに至るまで得るためです。 第3章16節のパウロの主要な思想は、クリスチャンとしてのわたしたちの生活の最 も重要な原則はキリストを追い求めることでなければならないということです。 こういうわけで、キリストを追い求めることは、それにしたがってわたしたちが 歩む大原則であるべきです。パウロは12節でこの事をすでに示しており、「わた しはそれを捕らえようと追い求めているのですが、それはわたしが、キリスト・ イエスによって捕らえられているからです」と言いました。この節によれば、わ たしたちの回心と救いの原則は、わたしたちがキリストを獲得するのは、キリス トによって獲得されるためであるということです。この原則は、わたしたちクリ スチャンの歩みにおける基本的で支配的な要素とならなければなりません。 残念なことに、今日のクリスチャンの多くはこの支配的原則に従っていません。 神の唯一の目標を追い求めることをしないで、他の事柄を追い求めています。こ の原則は、わたしたちがキリストを獲得するために彼を追い求めるということで す。キリストがわたしたちを獲得してくださったのは、わたしたちが賜物を獲得 するためではなく、わたしたちが彼を獲得するためです。A・B・シンプソンは、 彼の最上の詩歌の中で次のように言っています。 かつては祝福を求めたが、今は主を求める。……かつてわたしは彼の賜物を望ん だが、今はその与え主ご自身を求める。かつてわたしはいやしを求めたが、今は 彼ご自身だけ求める。 この詩歌が示しているように、クリスチャン生活の支配的原則は、賜物やいやし ではなく、キリストご自身です。A・B・シンプソンはこの事を認識したので、 この主題についてのビラを、「彼ご自身」と題して出版しました。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(三)」(1981年版)メ ッセージ24から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。