キリストの中に見いだされる(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ3:8 ……わたしはすべての事で損失を被りましたが、それらをちりあく たと勘定します。それは、わたしがキリストを得るためであり、(9節)そしてキ リストの中に見いだされるためです。それは、律法からのわたし自身の義を持つ のではなく、キリストにある信仰を通しての義、すなわち信仰に基づく神からの 義を持って……。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) キリストの中に見いだされることについての教理的な理解を持つことは一つの事 であり、わたしたちの日常生活の中でキリストの中に見いだされることは全く別 の事です。わたしが家庭にいるあなたを訪問するなら、あなたをどこに見いだす でしょうか? わたしはあなたを善い振る舞いの中に見いだすでしょうか、それ ともキリストの中に見いだすでしょうか? 人がわたしたちを観察する時、わた したちがどこにいるかは、わたしたちが生きている領域を示します。もし文化の 中に生きているなら、わたしたちは他の人によって文化の中に見いだされるでし ょう。もし善い振る舞いの中に生きているなら、わたしたちは他の人によってわ たしたちの振る舞いの中に見いだされるでしょう。わたしたちがどの領域の中に 生きていても、それが、わたしたちが他の人によって見られ、観察され、見いだ される場所です。パウロはまだ律法によって生きていた時、律法の中に見いださ れました。しかしある日、彼はキリストを知る知識の卓越性を持ち始めました。 彼は、キリストが彼のすべて、すなわち愛、親切、へりくだり、知恵、忍耐、意 図、態度、自分の言葉、発言、表現でさえなければならないというビジョンを見 ました。キリストを知る知識のこの卓越性のゆえに、彼は進んですべての事を損 失であると勘定しました。さらに、彼はすべての事で損失を被り、それらをちり あくたと勘定しました。それは、キリストを得て、キリストの中に見いだされる ためです。 わたしたちはキリストの尊さのビジョンを持つ必要があります。そして、わたし たちが見たキリストを獲得する必要があります。例えば、ある人が宝石店を訪れ て、展示されている多くの高価な品物を見るとします。これらの品物を見るのは 一つの事ですが、それらを得るのは別の事です。キリストを知るとは、ただ彼に ついての知識を持つことだけではなく、彼という方を得ることです。キリストを 得るとは、キリストの計り知れない豊富すべてを経験し、享受し、所有すること です(エペソ3:8)。わたしたちはキリストを得る時、彼の中に生き、経験的に彼 の中にいる者となります。その時、人がわたしたちを見て観察するなら、わたし たちをキリストの中に見いだすでしょう。わたしたちは自分の美徳の中に見いだ されないでしょう。わたしたちはキリストの中に、ただキリストの中に見いださ れるでしょう。ああ、わたしたちがキリストを得て、キリストの中に見いだされ ますように! わたしたちがキリストを得て、キリストの中に生きるなら、わた したちの義である彼は、神と人の前でわたしたちの表現となられます。その時、 わたしたちはただ一般的な方法でキリストの中に見いだされるのではなく、わた したちから生かし出されたキリストご自身である義の中に見いだされます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)メッセージ第20編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。