キリストの中に見いだされる(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ3:8  ……その方のゆえに、わたしはすべての事で損失を被りましたが、 それらをちりあくたと勘定します。それは、わたしがキリストを得るためであり、 (9節)そしてキリストの中に見いだされるためです。それは、律法からのわたし 自身の義を持つのではなく、キリストにある信仰を通しての義、すなわち信仰に 基づく神からの義を持って……。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 9節でわたしたちが、パウロの切なる願いがキリストの中に見いだされることで あったのを見ます。過去、パウロは完全にユダヤ教の中で、律法の下におり、常 に他の人によって律法の中に見いだされていました。しかし、彼は回心の時、律 法と以前の宗教からキリストの中へと移され、「キリストの中にある人」となり ました(2コリント12:2)。今や彼は、彼を観察するすべての者、すなわちユダ ヤ人、御使いたち、悪鬼どもによって、キリストの中に見いだされることを期待 しました。これは、彼の全存在がキリストに浸し込まれ、キリストで浸透されて、 彼を観察するすべての者が彼を完全にキリストの中に見いだすことを、彼が切望 していたことを示します。わたしたちもまた、他の人によってキリストの中に見 いだされることを切望すべきです。キリストの中に見いだされるとは、実は他の 人によってキリストの中で観察され、見られ、発見されることを意味します。 パウロはキリストへと回心する前、律法の中で、律法の下に生きていました。人 はパウロに会うといつも、パウロが律法の中におり、律法によって覆われている のを見いだしました。タルソのサウロ(回心前のパウロの名前)は、完全に律法に よって包まれ、律法によって覆われた人でした。彼は律法によって、律法をもっ て、律法の下に生きていました。しかしある日、彼は律法の下から出されて、キ リストの中へと移されました。それ以来、人がパウロを見て観察する時はいつも、 彼はキリストの中にある人になったと告げることができました。パウロは文化、 哲学、宗教の中にいませんでした。彼はキリストの中に生きた人であり、彼の切 望と期待は、他の人によってキリストの中に見いだされることでした。パウロは すべての事で損失を被り、それらをちりあくたと勘定しました。それは、一方で キリストを得るためであり、もう一方でキリストの中に見いだされるためでした。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)メッセージ第19編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。