キリストを知る知識の卓越性(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ3:8 しかしさらに、わたしはまた、わたしの主キリスト・イエスを知る 知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定します。その方のゆえに、 わたしはすべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定します。 それは、わたしがキリストを得るためであり……。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 8節によれば、パウロはキリストを知る知識の卓越性のゆえにすべての事を損失 であると勘定し、またすべての事で損失を被っただけでなく、実はそれらをちり あくたと勘定しました。ちりあくたのギリシャ語は、くず、がらくた、汚物、犬 に投げ与えられるものです。ですから、犬の食物、ふん土です。そのようなもの とキリストとは、比べようもありません。 第3章8節でパウロが直接、キリストの卓越性と言わないで、キリストを知る知識 の卓越性と言っていることを認識するのは、とても重要です。ピリピ人への手紙 を読む人の多くは、卓越性という言葉は、キリストを知る知識のことではなく、 キリストご自身のことを言っていると思っています。しかしながら、パウロは特 別に、はっきりと、キリストを知る知識の卓越性について語っているのです。パ ウロのキリストを知る知識は卓越していました。この知識の卓越性のゆえに、彼 は進んですべての事柄の損失を被ったのです。 7節でパウロは「キリストのゆえに」と言いますが、8節ではさらに進んで、「わ たしの主キリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに」と言います。「わたし の主」という言葉を付け加えたのは、パウロが書いていた時、キリストに関する 親密な、優しい感覚で満たされていたことを示しています。主イエスの尊さに関 する優しい感覚が彼の内側にわき上がり、彼に「わたしの主キリスト・イエス」 と言わせたのです。パウロは、彼の愛する主イエス・キリストを知る知識の卓越 性に、多大の価値を置きました。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)メッセージ第19編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。