肉を頼みとしない(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ3:3 なぜなら、わたしたちこそ割礼の者であり、神の霊によって仕え、 キリスト・イエスの中で誇り、肉を頼みとしないからです。(4節)とはいえ、わ たし自身も、肉を頼みとするものを持っています。もしだれか他の人が、肉を頼 みとするところがあると考えるなら、わたしはなおさらそうです。(5節)わたし は八日目に割礼を受け、イスラエル民族の者、ベニヤミン族の者、へブル人の中 のヘブル人、律法についてはパリサイ人、(6節)熱心については教会を迫害し、 律法にある義については、責められるところのない者です。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 5節でパウロは、八日目、すなわち真のイスラエル人が割礼された日に割礼され たと言っています(創17:12)。この日に割礼されることは、イシマエル人や後で 割礼された改宗者たちと異なっています。パウロはまた、ベニヤミン族の者であ るという事実を頼みとすることができました。これは愛すべき忠信な部族であり、 彼らの間に王の都エルサレムと神の宮がありました。パウロはまた、へブル人の 中のへブル人であったと言っています。彼はへブル人の父母から生まれたヘブル 人であり、父母ともヘブルの先祖を持っていました。さらに、彼の祖父母もいず れもヘブル人でした。そのような人だけが、へブル人の中のへブル人であると言 うことができました。彼は純血のへブル人であり、純粋のヘブルの血統であると 誇ることができました。5節でパウロは、自分は律法についてはパリサイ人であっ たと告げています。ここの律法は、すべての正当なユダヤ人が尊んだモーセの律 法です。パリサイ人として、パウロはユダヤ宗教の中で最も厳格な派、モーセの 律法に対して極端に熱心な派の一員でした。パリサイ人は、彼らの生活のまさっ た聖さ、神への献身、聖書の知識を誇っていました。律法とユダヤ教に対する熱 心から、パウロは教会を迫害しました。教会を迫害したユダヤ人は、確かにユダ ヤ教の指導者の者たちでした。彼らの熱心をしのぐことはだれもできませんでし た。パウロは教会を迫害することにおいて、自分の熱心を誇りました。 最後にパウロは、「律法にある義については」責められるところのない者と見ら れ、証明されていたと言います。もちろんこれは、人の目による、人の判断によ るものです。神の目に、神の義なる律法によれば、いかなる肉も責められるとこ ろのないものはありません(ガラテヤ2:16)。パウロはかつて指導的なユダヤ教宣 教者でしたが、根本的な変化が彼の中に起こりました。パウロがユダヤ教宣教者 にとどまっていたなら、キリストを経験することは不可能であったでしょう。し かし、彼は別の種類の人、すなわち神の霊によって仕え、キリスト・イエスの中 で誇り、肉を頼みとしない者となったので、とても豊かにキリストを享受し、経 験することができたのです。わたしたちも肉や天然の能力、わたしたちの生まれ ながらの身分や伝統を、頼みとしない者であるべきです。そうではなく、わたし たちはその霊によって神に仕え、キリストの中で誇り、肉を頼みとしない者であ るべきです。もしわたしたちがそのような人であるなら、わたしたちはキリスト の真の経験を持ちます。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)第17編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。