注ぎのささげ物は神を喜ばせる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ2:17 しかしたとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、わたし が注ぎのささげ物として注がれるとしても、わたしは喜びます。またあなたがた すべてと共に喜びます。 士師9:13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私 の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならな いだろうか。』(新改訳) ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 信者たちはキリストを経験し享受した結果、パウロが信仰と述べている一つの構 成を持ちます。神の目に、この信仰はとても卓越した、美しい、驚くべきもので あって、神はそれをご自身にささげられたいけにえと考えられます。パウロは何 年もの間、特に入獄期間中に主を経験した後、天的ぶどう酒に構成されて、神を 喜ばせ、幸いにすることができるようになりました。信者たちの信仰のいけにえ は神を満足させ、注ぎのささげ物は神を喜ばせました。ですから、注ぎのささげ 物は、満足させるいけにえに加えてささげられる、喜ばせるささげ物です。新約 では、パウロが個人的なキリストの享受と経験を通して、喜ばせるぶどう酒とな って、主の御前に注がれたのを見ます。彼のキリストの経験は、彼をぶどう酒へ と構成し、神を幸いにしました。 17節によれば、パウロは、ピリピ人の間での自分の労苦が無駄ではなかったこと を認識しました。パウロは、彼らの信仰が基本的なささげ物であって、その上に 自分を注ぎのささげ物として注ぐことができることを知りました。「しかしたと え……わたしが注ぎのささげ物として注がれるとしても」という言葉は、パウロ が自分を、務めのために絶えずいけにえとしてささげられる者と考えていたこと を示します。彼が「たとえ」という言葉を使っているのは、彼が極みまでいけに えとしてささげられたことを暗示します。彼は殉教を、信者たちの信仰のいけに えの上に自分を注ぐことと考えていました。人の見方によれば、パウロは最終的 には殺されました。しかし、パウロの見方によれば、殉教とは注ぎのささげ物と して自分を注ぎ出すことでした。何年もの間、パウロは絶えず務めのために、自 分をいけにえとしてささげてきました。しかしながら、彼が注ぎのささげ物とし て極みまで注がれたのは、殉教の時になってです。今や、たとえ彼が信者たちの 信仰のいけにえと奉仕の上に、注ぎのささげ物として注がれるとしても、彼は彼 らすべてと共に喜ぶことができました。 パウロはここで、自分は常に務めのためのいけにえであったことを暗示していま す。もしいけにえがないなら、務めはあり得ません。わたしたちは、いけにえと なればなるほど、自分の褒賞がますます大きくなると考えてはなりません。務め とはいけにえの事柄であって、代償の事柄ではありません。わたしたちは、たと え注ぎのささげ物として注がれるとしても、最終的には、聖徒たちすべてと共に 幸いであり、喜ぶと言うことができる点にまで到達する必要があります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)第14編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。