注ぎのささげ物に構成される ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ2:17 しかしたとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、わたし が注ぎのささげ物として注がれるとしても、わたしは喜びます。またあなたがた すべてと共に喜びます。 2テモテ4:6 わたしはすでに注ぎ出されています。わたしの去る時は迫ってい ます。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 注ぎのささげ物は、レビ記第1章から第7章に啓示された基本的なささげ物に付け 加えられたものでした。基本的なささげ物は、キリストの各面の予表でした。注 ぎのささげ物は、ささげた人が享受したキリストを予表しました。キリストの天 的ぶどう酒は、ささげる人を満たして、神へのぶどう酒とさえします。使徒パウ ロは、キリストを享受することによって、そのような注ぎのささげ物となりまし た。それによって彼は、神へのいけにえである信者たちの信仰の上に自分の血を 流すことによって、注ぎ出されることができました。 全焼のささげ物、穀物のささげ物、平安のささげ物、罪のためのささげ物、違犯 のためのささげ物は、基本的なささげ物ですが、注ぎのささげ物は違います。レ ビ記第1章から第7章で扱われた五つの基本的なささげ物は、キリストが神に対し てわたしたちのために何であるかのさまざまな面の予表です。民数記第15章1節 から10節を読むなら、注ぎのささげ物は付け加えられたものであったことがわか るでしょう。もし基本的なささげ物の一つが、注ぎのささげ物なしにささげられ たなら、これは基本的なささげ物をささげることに何かが欠けていたことを示し ました。その基本的なささげ物をささげた人は、かなり貧しかったに違いありま せん。実は、注ぎのささげ物は、ささげた人自身が注ぎのささげ物になることを 象徴します。しかしながら、これは、ささげた人が自分の天然の構成にしたがっ て、そのような注ぎのささげ物になることができることを意味するのではありま せん。そうではなく、キリストが彼を満たし、彼に浸透し、彼を飽和するほどま でに、彼はキリストを享受しなければなりません。キリストはわたしたちの享受 のための天的ぶどう酒です。彼を内側に取り入れることによって享受する時、わ たしたちは彼で満たされ、徹底的に彼で浸透されるでしょう。このようにして、 わたしたちはぶどう酒となり、神にささげるささげ物の上に、注ぎのささげ物と して注がれるでしょう。 旧約における予表を基本として、パウロは自分自身を、信者たちの信仰のいけに えと祭司の奉仕の上に注がれた注ぎのささげ物と考えるようになりました。何年 もの間、パウロはキリストを飲み続け、享受し続けてきて、キリストで満たされ、 彼で浸透される点にまで至りました。最終的に、天的ぶどう酒であるキリストは パウロを、彼の存在そのものにおいてぶどう酒の構成とならせました。こういう わけで、パウロは自分自身を、祭司として自分が神にささげたいけにえの上に、 注ぎのささげ物として注ぎ出されるぶどう酒であると考えることができたのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)メッセージ第14編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。