神の子供たち ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ2:15 それは、あなたがたが、曲がったよこしまな世代のただ中で、責め られるところのない、たくらみのない、すなわち傷のない神の子供たちとなり……。 2ペテロ1:4 彼はその栄光と美徳を通して、尊く、際立って偉大な約束を、わ たしたちに与えてくださいました。それは、これらの約束を通して、あなたがた が情欲によるこの世の腐敗から逃れて、神聖な性質にあずかる者となるためです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 「神の子供たち」という表現は、その意味がとても豊かです。それは、神が事実 上わたしたちの中へと生まれたこと、わたしたちが神の命と性質を所有すること を暗示します。クリスチャンはしばしば、「わたしは恵みによって救われた罪人 にすぎません」と言います。これはもちろん正しいのですが、新約の啓示と比べ ればとても浅薄です。もしわたしたちが御言葉の真理を知っているなら、わたし たちは恵みによって救われた単なる罪人であるとは言わないでしょう。わたした ちは確信を持って、「わたしはその霊から生まれた神の子供です」と宣言するで しょう。もしあなたが、自分は神の子供であるというビジョンを真に見たなら、 喜び、驚き、賛美で満たされるでしょう。正しい意味において、わたしたちは神 の子供たちとしての自分の身分を誇る必要があります。疑いもなく、わたしたち は神の恵みによって救われた罪人です。しかし、わたしたちはまた神から生まれ たので、今や神の子供たちです。何とすばらしいことでしょう! 第2章15節のパウロの言葉によれば、わたしたちは曲がったよこしまな世代のただ 中で、傷のない神の子供たちであるのです。わたしたちが生きている世代は、曲 がった、ゆがんだ、ねじくれた世代です。しかしながら、わたしたちは神の子供 たちとして、異なっていなければなりません。わたしたちは神の子供たちですか ら、責められるところのない、たくらみのない、傷のない者であるべきです。わ たしたちが神の子供たちとなることができるのは、ただ神の命を持つことによっ てです。神の命を持つとは何とすばらしいことでしょう! 真に神の子供たちで ある者はすべて、自分が内側に神聖な命を持っていることを認識する必要があり ます。 神聖な命と共に、わたしたちは神聖な性質も持っています(2ペテロ1:4)。わたし たちは神聖な性質を十分に定義することはできませんが、それにあずかり、それ を内側に持っていることを、わたしたちは神の子供たちとして知っています。す べての生きているものは、それ自身の性質にしたがって行動します。それが行な うあらゆることは、その性質から出て来ます。例えば、桃の木が桃を産出するの は、そうすることが桃の木の性質に合っているからです。だれかが桃の木に、り んごを産出せず、ただ桃だけを産出するようにと命じるのは、おかしなことでしょ う。原則において、これと同じおかしなことを、多くのクリスチャンは行なって いるのです。人にある方法で振る舞うように、あるいは自分を改善するようにと 戒めを与えることによって、彼らはすべての真のクリスチャンが神聖な性質を持 っている事実を無視するのです。この性質はわたしたちを支配し、導くはずです。 クリスチャン生活におけるあらゆることは、神の性質にしたがっています。わた したちが神の命と神の性質を持っているとは、何とすばらしいことでしょう! ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)第13編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。