あなたがた自身の救いを成し遂げる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ2:12 そういうわけで、わたしの愛する人たちよ、あなたがたがいつも従 順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、わたしがいない今はなお さら、恐れとおののきをもって、あなたがた自身の救いを成し遂げなさい。 (13節)なぜなら、神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたがた の内で活動する神だからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― どのようにしてわたしたちは、わたしたち自身の救いを成し遂げることができる のでしょうか? もしわたしたちがわたしたち自身の救いを成し遂げることがで きるとしたら、それは救いをわたしたち自身の働きとするのではないでしょうか?  仮に、わたしが穴に落ち込んで、だれかがわたしを救ったとします。それは救 いです。しかし、もしわたしが自分自身を救い出すことに成功したとするなら、 それは救いではありません。それはわたし自身の働きです。救いが働きからでは なく、恵みからである以上、わたしたち自身の救いを成し遂げることを告げるこ とによって、パウロは何を意味しているのでしょうか?  パウロの言葉を理解するかぎは、この節での救いの意味を知ることです。ここの 救いは、火の池からの救いではありません。むしろそれは、この書簡の中でもっ と前にパウロが救いについてすでに言ったことを示しています。12節の「そうい うわけで」という言葉は、パウロがこの節で言っている事は、先行した事柄の結 果であることを示します。わたしたち自身の救いを成し遂げることは、先行の数 節で見られるように、キリストをわたしたちの模範として取ったことの結果です。 わたしたちの模範として、キリストはわたしたちの救いです。しかしながら、こ の救いはわたしたち自身によって成し遂げられなければなりません。 これがわたしたちの経験の中で成し遂げられるためには、この模範はわたしたち にとって客観的であるだけでなく、主観的でなければなりません。もしそれが客 観的であるだけでしたら、わたしたち自身によって成し遂げられる救いではあり 得ないでしょう。ここの救いは、わたしたちが受ける救いではありません。わた したちが成し遂げる救いです。わたしたちが受ける救いは、神の罪定めから、ま た火の池からの救いです。わたしたちはその種の救いを成し遂げる必要はありま せん。ピリピ人への手紙の中のここの救いは、別な種類の、または違う程度の救 いです。それは使徒行伝第16章31節で述べられているものよりもっと高度のもの です。そこで獄吏は、もし主イエス・キリストを信じるなら彼と彼の家族は救わ れると告げられています。第2章12節の救いは、事実上ひとりの生ける方です。 この方は、わたしたちが生き、経験し、享受するキリストご自身です。客観的で しかない模範は、このようにわたしたちの救いとなることはできないでしょう。 救いは生ける方であり、またこの方はわたしたちの模範であるという事実は、そ の模範が客観的であるのと同じように、主観的でもあることを示します。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(1981年版)メ ッセージ10から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。