客観的で主観的な模範 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ2:5 キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたがたの内側でも 思いとしなさい。(6節)この方は、神の形の中に存在されますが、神と等しくあ るのを固守すべき尊いこととは見なさず、(7節)かえってご自身をむなしくし、 奴隷の形を取り、人の姿になられて、(8節)人としての有り様で見いだされ、ご 自身を低くして、死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも従順になられまし た。(9節)それゆえに、神もまた、彼を高く引き上げ、そして、あらゆる名にま さる名を彼に与えられました。(12節)そういうわけで、わたしの愛する人たちよ、 あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいるときだけでなく、 わたしがいない今はなおさら、恐れとおののきをもって、あなたがた自身の救い を成し遂げなさい。(13節)なぜなら、神の大いなる喜びのために、願わせ働かせ るのは、あなたがたの内で活動する神だからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第2章5節から8節で、パウロはわたしたちの模範であるキリストを提示します。 この模範は客観的であるだけでなく、また主観的です。しかし、わたしが若かっ たときに教えられたのは、わたしたちの模範であるキリストの客観的な面につい てだけでした。キリストは地上の生涯において模範をうち立てたので、わたした ちは彼の足跡に従うべきである、と告げられました。今やわたしたちはさらに進 んで、わたしたちの模範であるこのキリストがどこにおられるかを問わなければ なりません。彼は天におられるのでしょうか、それともわたしたちの中におられ るのでしょうか? 9節は、神がキリストを高く引き上げられたことをはっきり と示しています。ですから、わたしたちの模範であるキリストが天におられるこ とには間違いがありません。しかしながら、もしキリストが客観的に第三の天に おられるだけだとしたら、どうして今わたしたちが彼を模範とすることができる でしょうか? それは不可能です。キリストを模範とするためには、この模範は 主観的でなければなりません。 パウロはピリピ人への手紙第2章で、客観的なキリストをわたしたちの模範とし て、それからキリストに倣うようにとは命じていません。このようにキリストを 模倣しようとすることは、猿が人間をまねようとするようなものです。わたした ちは、5節から8節までを文脈から切り離すことはできません。これらの節を文脈 の中で考えるとき、その模範はわたしたちの救いであり、またこの救いはわたし たちの内側で実際に救うために活動しておられる神ご自身であることがわかりま す。わたしたちは自分では、わたしたち自身の救いを成し遂げることはできませ んが、そうすることのできる方が今やわたしたちの中で活動して、内側で願わせ、 外側で働かせているのです。わたしたちの責任は、彼と協力することです。神の 内側での活動に協力するとき、わたしたちはキリストを模範とするのです。 13節の初めの「なぜなら」という言葉は、わたしたちの内側で神が働くのは、わ たしたちが恐れとおののきをもって自分自身の救いを成し遂げることと関係があ ることを示しています。神がわたしたちの内側で活動して願わせ働かせるのは、 彼の大いなる喜びのためです。確かに、13節の「働かせる」ことは、12節の「成 し遂げる」ことを指しています。わたしたちは、自分自身の救いを成し遂げるこ とができないと告白するかもしれません。そうです、自分ではできません。しか し、神、わたしたちの内側で活動する方には、それができるのです。神がわたし たちの内側で活動して、願わせ働かせるのですから、わたしたちは自分自身の救 いを成し遂げることができるのです。神がわたしたちの内側で活動することにつ いてのパウロの言葉は、この模範が客観的であるだけでなく、主観的でもあるこ とを示しています。教理的には、この模範は客観的です。しかし、経験的には非 常に主観的です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(1981年版)メ ッセージ10から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。