十字架につけられた命を生きる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ2:5 キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたがたの内側でも 思いとしなさい。(6節)この方は、神の形の中に存在されますが、神と等しくあ るのを固守すべき尊いこととは見なさず、(7節)かえってご自身をむなしくし、 奴隷の形を取り、人の姿になられて、(8節)人としての有り様で見いだされ、ご 自身を低くして、死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも従順になられまし た。(13節)なぜなら、神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなた がたの内で活動する神だからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― これらの節で提示された模範が、今やわたしたちの内側にある命です。この命は、 わたしたちが十字架につけられた命と呼んでいるものです。キリストのへりくだ りの七つの段階は、十字架につけられた命のすべての面です。キリストは神格の 表現を持っておられましたが、この表現を脱がれました。しかしながら、神格の 実際を脱ぐことはありませんでした。彼は、より高い形、すなわち神の形を脇に 置き、はるかに低い形、すなわち奴隷の形を取られました。このことにおいて、 彼はご自身をむなしくされました。確かにこれは十字架につけられた命のしるし です。それから人と成って、人の外観で見いだされた後、キリストは十字架の死 に至るまでもご自身を低くされました。これは、完全に、また絶対的に生かし出 された十字架につけられた命でした。 キリストはわたしたちにとって外側の模範であるだけではありません。彼はわた したちの内側の命でもあります。彼はこの内なる命として、わたしたちに彼を経 験させ、それによって十字架につけられた命をわたしたちに生きさせるのです。 この十字架につけられた命の中には、競争心、虚栄、うぬぼれの余地はありませ ん。それどころか、自分をむなしくすることと自分を低くすることがあります。 キリストを経験し、またキリストを生きるどんな時も、わたしたちは自動的にそ のような十字架につけられた命を生きます。これが意味することは、わたしたち がキリストを生きる時、わたしたちは十字架につけられた命の模範である方を生 きるということです。その時、わたしたちも自分自身をむなしくし、自分自身を 低くするでしょう。 もしわたしたちが内側に十字架につけられた命を持っていないとしたら、わたし たちはピリピ人への手紙第2章に提示された模範にしたがって生きることは決し てできないでしょう。十字架につけられた命だけが、そのような模範を生きるこ とができます。もしわたしたちが依然として競争心や虚栄から物事を行なったり、 依然として指導者や長老になろうとする野心を持っているとしたら、わたしたち は十字架につけられた命を生きていないのです。わたしたちは自分自身をむなし くしていませんし、自分自身を低くしてもいません。しかしながら、わたしたち が内側に持っている命は、真に自分をむなしくし、自分を低くする命です。この 命は決してあるものを宝として固守したりしません。そうではなく、それはいつ も喜んで地位や称号を脱ぎ捨てます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(1)」(1981年版)メ ッセージ10から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。