わたしの義と聖別であるキリスト ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント1:30 しかし、あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは、神に よるのです。このキリスト・イエスは、わたしたちに至る神からの知恵、すなわ ち、義と聖別と贖いとなられました。(31節)それは、「誇る者は、主の中で誇れ」 と書かれているとおりです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― この勝利を得る命は、得るものであって、到達するものではありません。これは ただ得るものであって、決してあなたが到達するのではありません。得るとは、 あるものを自分の手にすることです。到達するとは、長い道のりを経ることです。 徐々に進んで行かなければならず、いつ到達するのかという確信がありません。 ハレルヤ! クリスチャンの勝利とは、徐々に進んで行って到達するものではあ りません。 この節では、神はキリストをわたしたちに対して三つのものにならせました。す なわち、(1)義、(2)聖別、(3)贖いです。いつ神はキリストをわたしたちの義 とされたのでしょうか? 神がキリストをわたしたちの義とされたのは、キリス トが十字架で死なれた時です。その時、わたしたちは主イエスをわたしたちの義 として受けました。それを受け入れるために、三日間にわたって叫ぶ必要があっ たでしょうか? わたしたちは、神に十分な赦しを求めてはじめて受けたのでし ょうか? 主に感謝し、賛美します! 神の御子はわたしたちに代わって死なれ ました。わたしたちが信じれば、すぐに受けます。残念なことに、主イエスをわ たしたちの聖別として受け入れることでは、多くの人は堂々巡りをしています。 わたしたちは時間を浪費し、労苦しています。主をわたしたちの義として受け入 れることは、瞬時のことです。同じように、主をわたしたちの聖別として受け入 れることも、瞬時のことです。もしわたしたちが徐々に進歩し、ある日聖別に到 達することを期待しているなら、決してそこに到達することはないでしょう。自 分自身の義を立てようとする者は、決して救われません。同じように、自分自身 の聖別を立てようとする者も、決して勝利を得ることはありません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第24巻「勝利を得る命」(1997年版)第3編から引用され ています。いずれも日本福音書房から出版されています。