交わりは双方向の行き来である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ2:1 こういうわけで、もしキリストにあっていくらかでも励まし、もし いくらかでも愛の慰め、もしいくらかでも霊の交わり、もしいくらかでも情け深 さと同情があるなら、(2節)どうかあなたがたは同じ事を思い、同じ愛を持ち、魂 において結合され、一つの事を思って、わたしの喜びが満ちるようにしてくださ い。 4:4 主の中でいつも喜びなさい。わたしは繰り返して言います。喜びなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第2章1節から4節の述部は、「わたしの喜びが満ちるようにしてください」です。 この書は、喜びという結果になるキリストの経験と享受に関するものですから、 それはまた喜びと歓喜に満ちた書でもあります(1:4, 25, 18.2:17-18, 28-29. 3:1.4:1, 4)。ピリピ人たちの間では、彼らの思いの中に異見の衝突(4:2)、使 徒を悩ませた異見の衝突がありました。ですから、使徒は彼らに同じ事を、同じ 一つの事をさえ考えるようにと求めました。それは彼らが使徒の喜びを満たすた めでした。 第2章1節から4節でわたしたちは、信者たちと使徒との間の交わりを見ます。ピリ ピ人への手紙第1章における行き来は、使徒から信者たちへの一方通行です。今や 第2章では、信者たちから使徒への行き来を見ます。交わりには、そのような双方 向の行き来が必要になります。このような双方向の行き来は、キリストの経験の ためです。パウロはキリストの経験において豊富でしたから、第1章で信者たちに 自分の経験を詳細に提示することができました。これが彼らに対する彼の交わり でした。今や第2章で彼はピリピの信者たちに、交わりのお返しを自分にしてもら いたいと求めています。パウロはピリピ人たちに、もしキリストにあっていくら かでも励まし、もしいくらかでも愛の慰め、もしいくらかでも霊の交わり、もし いくらかでもわたしに対する情け深さと同情があるなら、わたしの喜びを満たし てもらいたいと訴えています。パウロはピリピ人たちのことを喜ぶことができま した。しかし、彼らについてのある事が、彼が十分に喜ぶのを妨げました。パウ ロは次のように言うことができました、「ピリピ人たちよ、わたしはあなたがた に関して喜びを持っています。しかし、わたしの喜びは十分ではありません。わ たしが十分に喜ぶのを妨げているものが、あなたがたの間にあります。どうかわ たしの喜びが満ちるようにしてください」。 彼はすでに前の章でこのような積極的な交わりを彼らに与えていました。今や彼 は彼らに、この交わりに答えてもらいたかったのです。交わりに対するそのよう なお返しは、信者たちが使徒を支えることとなりました。彼らの励まし、慰め、 優しさは、獄中のパウロを支えることとなりました。ですから、パウロはピリピ 人たちに、自分の喜びが極みにまで満ちるようにしてくださいと訴えたのでした。 パウロは、自分を支えてくれる彼らの励まし、慰め、交わりを必要としました。 もしピリピ人たちがそのような支えを彼に与えるのでしたら、彼らは彼の喜びを 満たすことになります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(1981年版)メ ッセージ9から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。