キリストを大きく表現する(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ1:20 そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じ ることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも 死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第1編) 今、キリストを大きく表現するとは何を意味するのかを考えなければなりません。 大きく表現するという言葉は、あるものをわたしたちの目に大きくすることを意 味します。おそらくあなたは、キリストはすでに宇宙的に大きいのに、なぜ大き く表現されることができるのかと思っているでしょう。エペソ人への手紙第3章 によれば、キリストの大きさ、すなわちその広さ、長さ、高さ、深さは測ること ができません。それは宇宙の大きさです。キリストは広大で、広範で、測ること ができないのですが、皇帝カイザルの護衛をしている親衛隊員の目には、事実上、 存在しないかのようでした。彼らの目に、イエス・キリストのような人物はあり ませんでした。しかしながら、パウロはキリストを大きく表現しました。彼は人 の目の前に、特に獄の中で彼を監視していた人たちの目の前に、キリストを偉大 にしました。その結果、何人かがついにキリストに転機しました。このことの証 拠は第4章22節に見いだされます。そこにおいてパウロは、カイザルの家の聖徒 たちについて語っています。パウロがキリストを大きく表現することを通して、 カイザルの家の者でさえ救われたのです。 パウロが投獄されていた時、ユダヤ人はローマ人によって軽べつされていました。 ローマ人は征服者であり、ユダヤ人は征服された者でした。この征服された者の 中に、イエスという名の人がいました。彼は偉大で最もすばらしかったのですが、 ローマ人の目には無でした。しかし、パウロはローマの獄に捕らえられていた時、 キリストを大きく表現し、自分を捕らえている者の目にキリストを大きく見せま した。 わたしたちも日常生活で、キリストを大きく表現し、人の目に彼を大きくすべき です。あなたが行く職場や学校で、人々はキリストを見下げるかもしれません。 彼らは彼をあざけり、彼の名を侮辱するかもしれません。ですから、あなたは人 にキリストを小さく見せるのではなく、キリストを大きく表現し、大きく見せる 必要があります。わたしたちはまた、キリストを家庭において大きく表現すべき です。若い人たちの幾人かの両親はキリストを信じず、むしろ彼を軽べつするか もしれません。ですから、これらの若者たちはキリストを彼らの両親の前で大き く表現する責任を負わなければなりません。両親に対してキリストを単に宣べ伝 える代わりに、彼らはキリストを大きく表現する必要があります。わたしたちは 内側の命だけでなく、外側の生活も必要とします。正常な生活を通して、キリス トは人の目に大きく見えるでしょう。若い人たちよ、あなたの両親に対して、あ なたの中のキリストの偉大さを見せてあげなさい。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(1981年版)メ ッセージ6から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。