あらゆる方法でキリストが宣べ伝えられているのを喜ぶ ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ1:18 それではどうなのでしょうか? 見せかけであろうと真実であろう と、あらゆる方法でキリストが宣べ伝えられているのですから、わたしはこのこ とを喜んでいます。そうです。わたしはこれからも喜びます。(19節)というのは、 あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通 して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです。(20節) そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、 かえっていつものように、あらゆることで大胆になって、生きるにも死ぬにも、 今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― パウロの心は恵みによって広くされていたので、彼の反対者が見せかけでキリス トを宣べ伝えていたことをさえ喜びました。何という真っ直ぐな霊でしょう!  これは、彼の中に生きていたキリストの命、性質、思いが成し遂げたことでした。 彼のキリストに対する経験は、享受でした。そのような命は、環境がどうであろ うと喜びます。 パウロは、キリストを宣べ伝えるどちらの方法も救いになることを知っていまし た。19節の救いとは、支えられ強められてキリストを大きく表現し、キリストを 生きることです。パウロの環境は、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を 通して、ますます豊かに彼にキリストを経験させ、享受させました。パウロの経 験においては、神の救いは極限にまで達成されました。そのような救いの経験は、 完全にキリストの享受とキリストの経験にかかっています。 パウロの環境はまた、彼がキリストを生き、キリストを大きく表現するように促 しました。パウロは異なる福音の宣べ伝えによって引き起こされた環境を利用し て、キリストを経験し、キリストを生き、キリストを大きく表現しました。今日 のわたしたちの状況も同じです。一方においてわたしたちは、キリストが宣べ伝 えられるある方法に同意することができません。他方においてわたしたちは、キ リストが宣べ伝えられていることで喜ぶことを学ぶべきです。わたしたちの態度 がこうであれば、キリストの異なる宣べ伝えによってもたらされる不正常な状態 は、わたしたちがパウロのようにキリストを享受し、キリストを生き、キリスト を大きく表現するための動機になるでしょう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(1981年版)メ ッセージ2から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。