かぎはキリストの経験である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ1:7 ……わたしが監禁されている時も、福音を弁明し立証している時も、 あなたがたはみな、わたしの恵みに共にあずかる者であるからです。(8節)わた しが、あなたがた一同をキリスト・イエスの心の中で、どんなに恋い慕っている か、神がわたしの証人です。(9節)ですから、わたしはこう祈ります。あなたが たの愛が、全き知識とあらゆる識別力において、なお一層あふれ、(11節)イエス ・キリストを通して来る義の実で満たされて、神の栄光と賛美となるように。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第1章7節から11節でパウロは重要な用語を数多く使っています。彼は、福音の 弁明、福音の立証、全き知識、あらゆる識別力、真にすぐれた事柄を識別する、 義の実について語ります。8節で彼は、「キリスト・イエスの心」についてさえ 言及しています。これらの節とそれらが含んでいるすべての用語と表現を理解す るかぎは、キリストの経験です。キリストの経験は、ピリピ人への手紙の入り口 を開くマスターキーです。福音の弁明、福音の立証、知識、識別力、真にすぐれ た事柄を識別する、純粋、義の実は、すべてキリストご自身であると言うのが適 切です。そうです、福音の弁明でさえキリストです。もしキリストを持っていな いとしたら、わたしたちは福音を弁明する道がありません。わたしたちはそれを キリストによってのみ弁明できるのであって、雄弁によってではありません。多 くの時、わたしたちの語りかけの中にキリストの実際がないのに、福音を宣べ伝 えたり、さらにはキリストを語ったりすることがあり得ます。そのような福音の 宣べ伝えには、他の人たちに対するキリストの供給はありません。福音を弁明す る方法は、キリストを供給することです。キリストは福音の真の立証でもありま す。なぜなら、彼は福音の中心、焦点であるからです。彼がなければ、福音の何 の立証もありません。 真の知識と識別力もまたキリストご自身です。もしわたしたちがキリストを毎日 経験するなら、わたしたちは知識と識別力で満たされるでしょう。わたしたちは 自分の天然の賢さによってではなく、わたしたちの内側に生きておられるキリス トによって問題を識別するでしょう。わたしたちのキリストの経験が、わたした ちを賢い分別ある者とするでしょう。内住のキリストがわたしたちの知覚力です。 若かったころ、わたしは主を真に追い求める者でしたが、キリストがわたしたち の識別力、わたしの分別、わたしの知覚であり得ることを知りませんでした。し かし、何年かを通じてわたしは、彼が事柄の性質を見抜く能力そのものであるこ とを見るに至りました。内住のキリストはわたしの知覚です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(1981年版)メ ッセージ4から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。