教会にはただ一つの階級の信者しかいない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ1:1 キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテから、監督たちと執 事たちを含んだ、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たちへ。 1コリント1:2 コリントに在る神の教会へ、すなわち、キリスト・イエスの中 で聖別され、召された聖徒たち、それと共に、わたしたちの主イエス・キリスト の御名を至る所で呼び求めているすべての人へ。彼は彼らのもの、またわたした ちのものです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ピリピ人への手紙第1章1節は、一地方にある教会が、指導する監督と奉仕する執 事とを含む聖徒たちから成っていることを見せていますが、それはピリピに在る 教会がよい秩序にあったことを示すものです。パウロは、「すべての聖徒たちと 監督たちと執事たちへ」とは言いませんでした。彼は「監督たちと執事たちを含 んだ、すべての聖徒たちへ」と言いました。「含んだ」と訳されたギリシャ語前 置詞は、実は「一緒にいる」を意味します。もしパウロが「含んだ」の前置詞で はなく、「と」の接続詞を使ったとしたら、一地方にある教会には三つのグルー プの人たち、すなわち聖徒たち、監督たち、執事たちがいることを示すでしょう。 しかし、彼が「含んだ」を使っていることは、教会の中にはそのような三つのグ ループがないことを示しています。 今日の組織されたキリスト教の観念は、教会の内部にさまざまな明確な階級の人 たちを持つことです。しかしながら、一地方における集会の中にさまざまな階級 の信者たちがいることは、聖書に反しています。新約聖書は、一地方にある教会 にはただ一つのグループがあるだけであり、このグループがすべての聖徒たちか ら構成されていることを啓示しています。聖霊の導きの下でペンを執ったパウロ は、念入りに用心深い方法で書き、接続詞の「と」ではなく、前置詞の「含んだ」 を用いました。パウロが接続詞ではなく前置詞を用いたことは、非常に意義深い です。それはどの地方にもただ一つの教会があるべきことを示します。そしてそ れは、その地方におけるすべての聖徒たちを含んでいなければなりません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(1981年版)メ ッセージ2から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。