祈り――神のみこころを尋ね求める(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ26:39 ……うつぶせになり、祈って言われた、「わが父よ、できること なら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしのこころのま まではなく、あなたのみこころのままになさってください」。(42節)彼はまた二 度目に離れて行き、祈って言われた、「わが父よ、これをわたしが飲まなければ、 過ぎ去ることができないのでしたら、あなたのみこころがなりますように」。 (44節)そこで、彼らを残し、再び行って、三度目も、また同じ言葉を言って祈ら れた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) もし人が自分自身と自分の願望をどのように追い求めるべきかを知っているだけ であれば、彼は祈るかもしれませんが、祈りの人ではありません。祈りの人は、 全宇宙においてただ神と神のみこころだけを心にかけ、このほかにどんな願望も 持たないというまでにならなければなりません。 わたしたちは、わたしたちの主イエスがこの地上で人として生きられた時の彼の 中に、このような特徴を非常に明らかに見ることができます。彼がゲッセマネで 祈っておられた時、ご自分の死の問題で神と交わっておられましたが、「できる ことなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と言われました。しかし、 それから彼は、「しかし、わたしのこころのままではなく、あなたのみこころの ままになさってください」とも言われました(マタイ26:39)。三度も彼は神に対 して、自分のこころではなく、あなたのみこころを求めると告げました。通常わ たしたちは、人が祈る時、神に何かを自分のためにしてくださいと求めるものだ と思っています。例えば、彼が一つの願いを持っており、そこで彼はその願いに したがって祈り、神が自分のためにそれをかなえてくださることを求めます。し かし、ゲッセマネにおいてわたしたちは、「わたしのこころのままではなく、あ なたのみこころのままになさってください」と祈られた方を見るのです。事実、 主イエスは次のように言っておられました、「わたしはここで祈っていますが、 あなたが何かをわたしのために成し遂げてくださることを求めているのではあり ません。そうではなく、わたしはあなたのみこころが行われることを求めている のです。わたしはこの宇宙の中で、わたし自身のためには何も求めません。わた しの唯一の願いは、あなたが繁栄されること、あなたのみこころが遂行されるこ とです。わたしは、あなたとあなたのみこころだけを欲するそのような者です」。 主イエスが弟子たちにどのように祈ったらよいか教えられた模範の祈りを、もう 一度見てみましょう。それは全く同じ原則にしたがっています。一番最初に彼は 言われました、「あなたの御名が聖とされますように。あなたの王国が来ますよ うに。あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますよう に」(マタイ6:9-10)。これらの祈りの言葉は、彼の内なる願望が何であったかを 明らかにわたしたちに告げています。兄弟たちよ、もしわたしたちが自分自身の 生活、仕事、家族のためにどのように祈るかを知っているだけであるなら、わた したちの祈りには確かに欠け目があります。これは、わたしたちが神の御前に単 一でも純粋でもなく、依然として内側が複雑で混ざりものがあることを証明して います。わたしたちは神以外のものを求めているのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「祈りの学課(前篇)」(1984年版)第3章から引用されてい ます。いずれも日本福音書房から出版されています。