祈りは、神のみこころがわたしたちを通過することである ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ダニエル9:18 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れ すさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御 前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あな たの大いなるあわれみによるのです。(19節)主よ。聞いてください。主よ。お赦 しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のた めに遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられてい るからです」。(新改訳) ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― エレミヤ書第29章で神は言われました、「バビロンに七十年の満ちるころ、わた しはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたが たをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っ ているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であ り、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(10-11節)。これらの言 葉は、イスラエル人に対して神の意図を宣言しました。これらは神が行なおうと された事でした。しかし、兄弟姉妹よ、お聞きしますが、神はご自身の意図をど のように実行されるのでしょうか? 神の原則によれば、神の意図は地上での祈 りを通して遂行されなければならないのです。人の祈りなしに神の願いが満たさ れることはできません。どんな種類の人が神の意図のために祈るように神に用い られることができるのでしょうか? ただ一種類の人、神の御前に生き、神の御 前に待ち、神に着手していただく人だけです。 ダニエル書を読む時、あなたはダニエルが真に神の御前で何かに着手しなかった 人であったことがわかります。彼は自分自身のためではなく、ただ神のためを心 にかけて神の御前に待ちました。こうして彼は、神のこの特定の意図に触れ、そ れを理解しました。そして七十年の満ちた後、神が再びイスラエルの子たちの捕 囚を帰還させるであろうことを知りました。ダニエルの願いが神の意図と組み合 わされたので、彼は断食しました。そして祈りの中で神の御前にこの願いを注ぎ 出したのです。そのようにして神の心の願いと意図は神から出てきて、ダニエル に入り込み、彼を通過し、ついに神の御座に戻りました。すると、神の御座はそ の状況に関して即座に行動を取りました。この行動は、全くダニエルの享受のた めでも彼の栄光のためでもなく、ただ神が栄光を得られるためでした。これは非 常に意味深い問題です。ダニエルは、神が他の人たちを連れ戻されるように彼ら のために祈りましたが、ダニエル自身は帰りませんでした。彼は結局は帰ったの かもしれませんが、聖書にはそれについての明白な記録は何もないのです。彼は 一つのことを求めました。そして神はそれをかなえられました。しかし、彼自身 はその結果にあずからなかったらしいのです。 こういうわけで、この祈りの原則に関して、あなたの全存在は頭のてっぺんから つま先まで脇に置かれなければなりません。あなたの存在は、祈りにおいて多く の地位を占めないのです。開始において着手するのは神です。その過程において、 あなたは神と協力する者にすぎません。そして究極的に、それは神の栄光のため です。これが真の祈りです。人は神と結合し、地上で神と協力し、そして神が人 を通してご自身を表現し、ご自身の目的を成就することができるようにするので す。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「祈りの学課(前篇)」(1984年版)第2章から引用されてい ます。いずれも日本福音書房から出版されています。