祈りを通してわたしたちの負担をおろす ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1テモテ2:1 そこで、まず、わたしは勧めます。すべての人たちのために、願 いと、祈りと、とりなしと、感謝とをささげなさい。(8節)ですから、男たちは 怒ったり議論したりすることなく、あらゆる所で聖い手を上げて祈ることを、わ たしは願っています。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 正当な祈りにおいて、あなたは常に初めのうちは負担をとても重く感じますが、 終りにはとても軽く感じるはずです。もしあなたが祈りの初めにおいて冷めてい て、また祈りの終りにおいても依然として冷めているなら、もしあなたに負担が 重くもなく軽くもないとしたら、もしあなたが祈っても祈らなくても別に相違が ないようだとしたら、あなたは自分の祈りが標準に達していないことを知るので す。標準にかなっている祈りでは、あなたはその中でまず神に近づきます。あな たが近づいている間に、あなたの負担となる一つの意図があなたの中に入ります。 そしてあなたは、神の御前に出て、自分の心を注ぎ出し、自分の負担をおろす必 要を感じるようになります。こうしてあなたが適切に祈り終わると、あなたは直 ちに内側に軽さを感じます。負担がおろされたのです。もしこのような状態がな いとしたら、あなたの祈りは全く正当ではありません。 例証として、中国内地会の創設者であるハドソン・テーラーの救われた物語を用 いましょう。彼の伝記によれば、彼が15歳か16歳のころ、彼の救われた日に、母 親は70マイルか80マイルも離れた親戚を訪ねていたそうです。その午後、彼女は 自分の息子の救いについて死にもの狂いの負担を感じました。そこで彼女は一人 部屋に閉じこもって神の御前で祈り、自分の心の願いを注ぎ出しました。彼女は 自分の内側にある負担がなくなるまで祈りました。すると、彼女は軽さと自由を 覚えました。そこで、神が自分の祈りに答えてくださったことを知って、彼女は 神に感謝し、賛美しました。母親が祈っている間に、ハドソン・テーラーは父親 の書斎で一冊の福音冊子に目をとめました。それには「キリストの完成されたみ わざ」という言葉が書いてありました。この簡単な言葉が彼に触れました。そし て彼に強く迫り、主を救い主として、全き心をもって受け入れるようにさせまし た。しばらくして母親が帰宅すると、ハドソン・テーラーは母親を迎えに玄関に 出て、「良い知らせがありますよ」と告げました。しかし、母親はほほえみなが ら彼を抱いて、次のように言いました、「わたしはもう知っていますよ。そして すでに二週間というもの、あなたの良い知らせのことで喜び続けていたのですよ」。 この物語の中でわたしたちはまず、神の意図はハドソン・テーラーを救うことで あったのを見ることができます。そのとき、彼の母親は主を仰ぎ望み、神の御前 で静まっていました。こうして、神はご自身の意図を母親の中に入れる機会を得 て、それを彼女の内側の負担とさせました。そして母親はそれを神の御前に注ぎ 出しました。究極的に、この負担は完全に神の御座の前でおろされました。する と、神が入ってこられて、この祈りを成し遂げられたのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「祈りの学課(前篇)」(1984年版)第2章から引用されてい ます。いずれも日本福音書房から出版されています。