祈りの最高の定義 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ15:7 あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがた の中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい。そうすれば、それらはあ なたがたにかなえられる。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 多くの人は、祈りという言葉を聞くと直ちに、それは神の御前に出て懇願するこ とを意味すると考えます。人は、窮乏しているからとか、物質的供給を必要とし ているからとか、病気でいやしを必要としているからとか、何かの解決を必要と しているからということで、神の御前に出て、自分の必要が供給されること、自 分の病気のいやし、自分の問題の解決を神に求めます。人々はこれらを祈りと考 えます。一見すると、聖書にはそのような祈りの例があるかのようです。例えば、 ルカによる福音書第18章のやもめは、絶えず裁判官の所に行って、彼女の受けて いる不当な扱いに対する復讐を求めています。しかしながら、兄弟姉妹よ、どう か覚えていてください。これは聖書の中に啓示されている祈りの正しい意味では ありません。わたしたちはそのような定義が誤っているとはあえて言いません。 しかし、それはあまりにも浅薄です。そして、深さにも正確さにも欠けています。 もし真の祈りが何であるかを今日知ろうと願うなら、わたしたちははっきり認識 しなければなりませんが、祈りとは、人が神の御前で単に自分自身の必要のため に懇願することではありません。 真の祈りとは、神と人との相互の触れ合いです。祈りとは、ただ単に人が神に接 するだけではなく、また神が人に接することでもあります。もし祈りの中で、人 が神に触れたり接することがなく、また神も人に触れたり接することがないなら、 その祈りは正しい標準に達していません。標準に達しているすべての祈りは、神 と人との間の相互の交流と接触であるものです。神と人は、ちょうど電気の流れ のように、お互いの中へと流れ込むのです。祈りとは、ただ人の中におられる神 だけである、または神の中にいる人だけである、と言うことはできません。事実 と経験によれば、祈りとは、神と人との間の交流です。真に標準に達しているあ らゆる祈りは、確かに神と人との間の相互の交流という状態があるでしょう。そ れによって、人は実際に神に触れ、また神は実際に人に触れるでしょう。こうし て、人は神と結合され、また神は人と結合されます。ですから、祈りの最高の、 また最も正確な意味は、神と人との相互の触れ合いです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「祈りの学課」(1984年版)の第一章から引用されています。 いずれも日本福音書房から出版されています。