人は神を完全にする ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ9:23 しかも、栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼 の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、どうなのですか? (24節)神はわ たしたちをさえ……。 2コリント4:7 しかし、わたしたちはこの宝を土の器の中に持っています。それ は、その卓越した力が神のものであって、わたしたちからではないことが現れる ためです。 エペソ1:23 この召会は、キリストのからだであり、すべての中ですべてを満た している方の豊満です。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 祈りは、人が神に触れるだけでなく、人と神との間の相互の触れ合いです。神と 人との触れ合いというこの問題は、聖書の中の非常に大きな題目です。わたした ちは、人の生きる目的は神の器となることであると、しばしば言ってきました。 宇宙において、神は人の内容であり、人は神の容器です。人がなければ、神には ご自分を入れる場所がないのです。神は、家のない神となってしまいます。なぜ そうなのか、わたしにはわかりませんが、それが事実であることは知っています。 神の最大の必要は人です。神は、ご自身における実体としては完全です。しかし、 宇宙における神の活動に関する限り、神はその活動を成就するために、やはり人 を必要とします。 このことによって、エペソ人への手紙第1章の最後の文を理解することができま す。それは、教会はキリストのからだであり、キリストの豊満であると言ってい ます。豊満という用語は、非常に翻訳しにくい言葉です。それはキリストの豊満 を示すだけでなく、キリストの完全さも暗示しています。ですから教会は、一方 ではキリストの豊満であり、他方ではキリストの完全さです。言い換えれば、教 会がなければ、キリストは全く完全ではないかのようです。 わたしたちはみな、この言葉を理解する上で非常に注意深くなければなりません。 なぜなら、それは神学上の激烈な論争を引き起こしかねないからです。わたしは、 神が不完全であるとか、人によって完全にしてもらう必要があるとか言っている のではありません。わたしの言っていることは、神はご自身においては全く完全 であるが、彼の計画によれば、人がなければ神は宇宙において完全ではないとい うことです。おお、兄弟姉妹よ、この事柄はあまりに栄光です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「祈りの学課」(1984年版)の第一章から引用されています。 いずれも日本福音書房から出版されています。