復活の後のキリストの奥義的なからだ ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ24:26 キリストはこれらの苦しみを受けて、彼の栄光に入るべきではなか ったのか? (37節)しかし、彼らはびっくりし、恐ろしくなり、霊を見ているの だと思った。(38節)イエスは彼らに言われた、「なぜ、あなたがたは当惑してい るのか? なぜ心に疑いを起こすのか? (39節)わたしの手とわたしの足を見な さい。まさしくわたしなのだ。わたしに触り、そして見なさい。霊には肉や骨は ないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。(40節)こう言って、 イエスは両手と両足を彼らに見せられた。(41節)彼らが喜びのあまり信じられな いので、不思議に思っていると、イエスは、「ここに何か食べる物があるか?」 と言われた。(42節)彼らが焼いた魚を一切れ差し出すと、(43節)彼はそれを受け 取って、彼らの前で食べられた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ペテロを含む弟子たちは、人・救い主の出現にとまどいました。彼らは、彼がど のようにして突然部屋に現れることができたのか理解することができませんでし た。戸は閉ざされていましたし、それを開いた人はだれもいませんでした。それ にもかかわらず、主は肉体の体をもって現れたのです。 主イエスは弟子たちに言われました、「なぜ、あなたがたは当惑しているのか? なぜ、心に疑いを起こすのか? わたしの手とわたしの足を見なさい。まさしく わたしなのだ。わたしに触り、そして見なさい。霊には肉や骨はないが、あなた がたが見るとおり、わたしにはあるのだ」(38-39節)。それから、彼は両手と両 足を彼らに見せられました。ここでわたしたちは、人・救い主の復活の体を見ま す。それは霊的であり(1コリント15:44)、また栄光の体であります(ピリピ3:21)。 主の現れは非常に奥義的でした。わたしたちは十分にそれを理解することはでき ません。彼は、その霊として部屋の中に入ってこられました。しかも、肉体の触 れることのできる体をもってです。釘あとも依然として見られました。彼のわき のやりで突き刺された所もやはり見ることができ、触れることができました。主 の体が、目で見ることができ、触れることができただけでなく、彼は食物を食べ ることもできました。「彼らが喜びのあまり信じられないで、不思議に思ってい ると、イエスは、『ここに何か食べる物があるか?』と言われた。彼らが焼いた 魚を一切れ差し出すと、彼はそれを受け取って、彼らの前で食べられた」(41-43 節)。わたしたちは、霊の体を持つ方として主イエスがどのようにして物質的食 物を依然として食べることができたのかわかりません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(四)」(1988年版)メッセ ージ54から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。