食卓の上の団体的なパン(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント10:17 一つパンであるからには、わたしたちは数が多くても一つから だなのです。それは、わたしたちがみなこの一つパンにあずかるからです。 1コリント12:12 それは、体が一つであっても多くの肢体があり、体のすべての 肢体が多くあっても一つ体であるように、キリストも同様だからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) コリント人への第一の手紙第10章17節でわたしたちは、パンが救い主の物質的な 体だけを象徴しているのではないことを見ます。それはまた彼の奥義的なからだ をも象徴しています。それは教会です。これは個人の問題ではなく、一つの団体 的なからだの問題です。わたしたちはみな一つのパン、一つのからだです。なぜ なら、わたしたちはみな一つパンにあずかるからです。わたしたちが一つパンに 共にあずかることは、わたしたちがみな一つであることを証しします。これは、 わたしたちがキリストにあずかることが、わたしたちすべてを彼の一つからだと することを示します。わたしたちみながあずかるキリストこそ、わたしたちを彼 の一つからだへと構成し込むのです。このパンの塊は、主ご自身を含むだけでは ありません。それはわたしたちを伴う主を含むのです。こういうわけで、そのパ ンの塊はもはや個人のキリストではありません。それは今や団体のキリスト(1 コリント10:12)であり、主イエスと信者たちとを含んでいるのです。 主の食卓の設立においては、パンが主要な要素です。十字架上でわたしたちは小 羊を見ます。しかし、食卓の上でわたしたちはパンを見ます。わたしたちは主の 食卓に着く時、そのパンがかしらとからだを含むこと、すなわちキリストとすべ ての信者たちを含んでいることを、認識する必要があります。ですから、それは 一つの全体的なパンの塊、団体的な実体です。主を賛美します。小羊はパンの塊 となりました! 彼の死を通し、また彼の復活の中で、小羊はパンの塊となった のです。ヨハネによる福音書第12章24節によれば、主は一粒の麦として地に落ち て死なれました。そして復活の中で、多くの穀粒で構成された一つのパンの塊と なられたのです。このパンの塊は無尽蔵です! ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(四)」(1988年版)メッセ ージ49から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。