なだめの必要のあるへりくだった罪人 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ18:9 またイエスは、自分は義であると自分自身に信頼し、他の人を蔑視し ているある者たちに対して、このたとえを話された。(10節)「二人の人が祈るた めに宮へ上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。(11 節)パリサイ人は立って、独り言でこのように祈った、『神よ、わたしは他の人 たちのように、搾取する者、不正な者、姦淫する者ではなく、この取税人のよう な者でもないことを、あなたに感謝します。(12節)わたしは週に二度、断食し、 自分の得るすべての物の十分の一をささげています』。(13節)ところが、取税人 は離れて立ち、目を天に向けることもしないで、胸を打ちながら言った、『神よ、 罪人のわたしに対して、なだめとなってください!』。(14節)わたしはあなたが たに言う。この者のほうがあの者よりも義とされて、自分の家に帰って行った。 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからであ る」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 10節から14節にかけて、主は二人の人が「祈るために宮に上って行った。一人は パリサイ人で、もう一人は取税人であった」と、たとえ話を告げます(10節)。主 はしばしば実例として取税人たちとパリサイ人たちを用いられました。11節のパ リサイ人の、他の人たちのようでないことを神に感謝するという言葉は、全く祈 りのようには聞こえません。むしろ他の人たちを訴えているように聞こえます。 同じように、12節の断食をし、十分の一をささげていることについての言葉も、 祈りのようには聞こえません。むしろ神に対して誇り高ぶっているようです。こ ういうわけで、パリサイ人は祈りの中で他の人たちを訴え、また神に対して誇っ ていたのです。 13節でわたしたちは、卑しめられ、訴えられ、罪定めされた取税人が極度にへり くだって祈ったことを見ます。彼の祈りは、贖い主の必要性と、なだめの必要性 をも意味しています。その取税人は、自分の罪深さがいかに神を怒らせているか を認識しました。ですから彼は、神がなだめられること、なだめの供え物によっ て自分に対し和らいでくださることを、神に求めました。それは、神が彼に対し てあわれみ深くあり、また恵み深くあられるためです。このへりくだった人は、 自分は罪人以外の何ものでもないことを認識しました。彼は神のなだめに基づい て祈りをささげたので、彼は「義とされて自分の家に帰って行った」のです(14 節)。 実は、わたしたちの罪を悔い改め、告白することは、自分を低くすることです。 すべて救われた人たちは、へりくだり、服従させられた人たちです。わたしは若 かったころ、高ぶって、尊大で、決して自分の間違っていることを進んで認めよ うとはしませんでした。しかしある日、その霊はわたしを捕らえました。わたし は罪を認めさせられ、へりくだらされ、服従させられました。わたしほど罪深い 者はいないと思われました。わたしの態度は前にあったものとは正反対でした。 わたしは経験から証しすることができますが、救われた人はへりくだり、服従さ せられた人です。わたしたちは、自分は何者でもなく、無であると見なす程度に まで自らへりくだる必要があります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(四)」(1987年版)メッセ ージ41から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。