根気よく祈ることを学ぶ(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ18:1 またイエスは、彼らが絶えず祈るべきであり、また失望しないように、 たとえを話して(2節)言われた、「ある町に、神を恐れず、人を尊重しない裁判 官がいた。(3節)その町に一人のやもめがいて、いつも彼の所に来ては、『わた しの相手に復讐してください』と言っていた。(4節)彼はしばらくは聞き入れよ うとしなかったが、後になって心の内で言った、『わたしは神を恐れないし、人 を尊重しないが、(5節)このやもめがわたしを煩わすから、彼女のために復讐し てやろう。そうでないと、ひっきりなしにやって来ては、わたしをうんざりさせ るであろう』」。(6節)主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを 聞きなさい。(7節)まして神は、日夜ご自身に叫び求める選ばれた者のために、 復讐しないであろうか? 神は彼らのことで、忍耐しておられるだろうか? (8 節)わたしはあなたがたに言う。彼は速やかに彼らのために復讐してくださる。 しかし、人の子が来る時、地上に信仰を見いだすであろうか?」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 3節のやもめは、信者たちを象徴します。ある意味で、キリストにある信者たち は、現在の時代ではやもめです。なぜなら、彼らの夫キリスト(2コリント11:2) は、彼らの所におられないからです。主はこのたとえ話の中で、キリストにある 信者たちには、敵対者がいることを示しています。この敵対者とはサタン、悪魔 であって、この者についてわたしたちは神に復讐していただく必要があります。 わたしたちはこの復讐を求めて根気よく祈るべきであり、失望すべきではありま せん。実は、主はおられないのではありません。彼はおられます。しかし、一見 すると彼が不在であられる期間、わたしたちは、敵対者によっていつも悩まされ ているやもめです。 わたしたちの敵対者がわたしたちを迫害している間、わたしたちの神は義ではな いかのように見えます。なぜなら神は、その子供たちが不当に迫害されるのを許 しておられるからです。例えば、バプテスマのヨハネは首をはねられました。ペ テロは殉教しました。パウロは投獄されました。ヨハネは流刑にされました。幾 世紀をも通じて、人・救い主に従う何千何万という誠実で忠信な人たちが不義な 迫害を受けました。今日でさえわたしたちは、依然として不義な虐待を受けてい るのです。わたしたちの神は公正でないかのようです。というのは、彼が入って きて裁き擁護することをされないからです。 この状況のゆえに、人・救い主は第18章1節から8節で、彼の迫害される民のため に何かをなさるようには見えない神を象徴するのに、不義な裁判官を用いられま す。わたしたちが迫害されており、しかもわたしたちの神が生きておらず、同在 しておらず、公正ではないかのように見えるそのような状況の中で、わたしたち はどうしたらよいのでしょうか? このたとえ話からわたしたちは、煩わすやも め、執ように神に祈る者となることを学びます。彼は義ではないかのようです。 それにもかかわらずわたしは、わたしたちが祈りの中で神を煩わす必要があるこ と、わたしたちが気落ちすることなく彼に執ように祈るべきであることを学びま した。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(三)」(1987年版)メッセ ージ40から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。