宗教の規定から解放される(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ13:15 しかし、主は彼に答えて言われた、「偽善者よ! あなたがたはみ な安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶から解いて連れて行き、水を飲ませはしな いだろうか? (16節)この女はアブラハムの娘なのに、見よ、サタンが十八年も 縛っていたのだ。安息日に、この束縛から解かれるべきではないのか?」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) この女がアブラハムの娘であったという事実は、彼女が神の選びの民の一人であ ったことを示します。しかしながら、彼女はサタンによって縛られていました。 この女が安息日にその束縛から解放されるというのは、いかにもふさわしいこと でした。なぜなら、安息日は人の安息のために神によって定められたものであっ て(創2:3)、人が束縛下にとどまるためではなかったからです。 なぜこの事例がルカによってここに置かれているのでしょうか? この質問に答 えるに当たり、この事が起こったのは、人・救い主がエルサレム、すなわち雰囲 気が極度に宗教的であった地に近づいておられる時であったことを、心にとめる 必要があります。主イエスが会堂に入り、この女のいやしに着手されたのは、彼 には宗教の死んだ形式やゆがめられた安息日の規定を守る意図が何もなかったこ とを弟子たちに見せるためであったと、わたしは信じます。彼は意図的にそれら の規定を破られたのでした。彼の来られたのは、人々を苦しみの中に縛っている もろもろの規定を守るためではなく、そのゆがめられた規定を打ち破り、それに よって苦しんでいる人たちがヨベルの祝福によって解き放されるためであること を、彼の弟子たちが知るためでした。 サタンによって縛られ、折れ曲がっていたその女を、主イエスがいやされた時、 主はヨベルを彼女にもたらしたのでした。第4章で主はヨベルを宣言されましたが、 そのヨベルにおいて捕らわれ人たちは釈放され、圧迫されている者たちは自由に されるのでした。こういうわけで、この事例は、第4章におけるヨベルの宣言の一 つの成就です。主の意図は、ご自身がエルサレムに行こうとしておられたのが宗 教的な規定を守るためではなく、実は意図的にそれらを打ち破り、人々がヨベル の中にもたらされるためであることを、弟子たちに知らせるためでした。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(三)」(1987年版)メッセ ージ31から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。