主イエスの祈りに自分自身をゆだねる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヘブル7:25 こういうわけで、彼を通して神に進み出る者たちを、彼は極みまで 救うことができるのです。なぜなら、彼はいつも生きていて、彼らのためにとり なしておられるからです。(26節)……天より高くなられた大祭司こそ、わたした ちにふさわしいのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― わたしたちは自分自身の祈りに信頼すべきではありません。わたしたちは主イエ スの祈りに信頼すべきです。それは、わたしたちが毎日熱心に祈ることではなく、 この数日どれほど祈ったかでもありません。わたしたちを極みまで救い続けるこ とができるのは、わたしたちの祈りではありません。わたしたちを極みまで救い 続けることができるのは、主イエスの祈りです。今晩ここにいる人たちの何人が、 主イエスの祈りの力を信じておられるか、わたしにはわかりません。あなたは保 留することなしに、主イエスの祈りに自分自身をゆだねることができるでしょう か?  あなたは、サタンの誘惑は激しい、この世の誘惑は強い、肉の欲望は強烈である、 サタンの攻撃は激しい、と考えるかもしれません。わたしはあなたの言葉に同意 することができません。わたしたちは自分自身を見れば、多くの時、自分はもう おしまいであると言いたくなるでしょう。サタンからもう少しでも誘惑が来れば、 自分の肉の力は尽きてしまうと考えます。多くの時、わたしたちは失望して、祈 り続けることはできないと感じます。そのような時、わたしたちは主イエスを仰 ぎ望む必要があります。彼はわたしたちの大祭司です。わたしたちは頭を上げて、 彼を仰ぎ望まなければなりません。わたしたちは次のように言うべきです、「わ たしにはできません。わたしは祈ることさえできません。しかし、わたしは主に 信頼します。主はわたしの大祭司です」。わたしたちは、主により頼まなければ なりません。わたしたちのためにとりなしておられるそのような大祭司がおられ るのですから、わたしたちが自分の救いを失うことなどあり得るでしょうか?  ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウォッチマン・ニー全集第29巻「神の福音(二)」(1999年版)メッセージ第16編か ら引用されています。いずれも日本福音書房より出版されています。