イエスのバプテスマ(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ3:21 さて、人々がこぞってバプテスマされ、またイエスがバプテスマされ て祈っておられた時、天が開け……。 マタイ3:13 その時、イエスはガリラヤからヨルダンに、ヨハネの所へ、彼によ ってバプテスマされるために来られた。(14節)ところが、ヨハネは彼をとどめよ うとして言った、「わたしがあなたによってバプテスマされるはずですのに、あ なたがわたしの所に来られるのですか?」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 人・救い主のバプテスマの意義について正当な理解を持とうとするなら、わたし たちは最高水準の道徳が何であるかをさらに考える必要があります。最高水準の 道徳とは実は、神によって創造された人性の美徳を持つ被受造の人に(創世記第1 章)、神聖な特質を伴う、わたしたちにとって命である神を象徴する命の木(創世 記第2章)を加えた結果です。 神によって創造された人の中には、人性の美徳がありました。これらの美徳は神 のかたちを持っており、また神の姿にしたがっていました。特に、これらの美徳 は神の愛、光、聖、義にしたがっています。創世記第2章によれば、人性の美徳 を伴う、神によって造られたこの人は、命の木の前に置かれました。命の木は、 神聖な特質を伴う命である神を象徴します。命の木が神によって造られた人に加 えられる時、その結果は最高水準の道徳における生活です。 主イエスがバプテスマされたのは、神の特質を表現する人間生活を生きるためで した。主イエスは全体的で完全な人でしたが、神を表現する生活を送るために終 わらされる必要がありました。バプテスマされることは、脇へ置かれること、終 らされること、葬られることを意味します。それはわたしたちが自分自身によっ て生きるのではなく、神によって生きるためです。もしわたしたちがこのように 除き去られるなら、わたしたちは人性の美徳の中で表現された神聖な特質を伴う 人間生活を送ることができるでしょう。 (明日に続く) ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、神を表現するためにあなたは、バプテスマにおいて喜んで自分自身 を脇に置き、神によって創造された人性に加えられた命の木で満たされた生活を 生きました。わたしの経験を深めてください。そしてわたしも今日、バプテスマ の実際の中を生きることができますように。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカによる福音書(一)」(1987年版)メッ セージ8から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。