キリストの本質的な面とエコノミー的な面(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ1:18 さて、イエス・キリストの由来はこうであった。彼の母マリヤは、 ヨセフと婚約していたが、彼らが一緒になる前に、聖霊から身ごもっていること が見いだされた。 ルカ3:21 ……またイエスがバプテスマされて祈っておられた時、天が開け、 (22節)そして聖霊がはとのような具体的な形で、彼の上に下った。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) マタイによる福音書第1章とルカによる福音書第1章によれば、主イエスは聖霊か ら身ごもられました。後に、彼はその務めのために聖霊で油塗られ、聖霊は彼の 上に下りました(ルカ3:22)。わたしたちは認識する必要がありますが、油塗る霊 が主イエスの上にエコノミー的に下る前に、主は、彼の存在の二つの本質の一つ として、彼の内側に神聖な本質としての生む霊を、すでに本質的に持っておられ ました。今やわたしたちは、神の本質としての生む霊が決して本質的に彼を去ら れなかったことを見る必要があります。彼が十字架上で、「わが神、わが神、な ぜわたしをお見捨てになったのですか?」と叫んでおられた時でさえ、彼は依然 として神聖な本質としての生む霊を持っておられました。それでは、彼を去った のはだれでしょうか? その方を通して彼が神にご自身をささげた油塗る霊が、 彼をエコノミー的に去られたのです。神がすべてを含むささげ物としてキリスト を受け入れた後、油塗る霊は彼を離れました。しかし、油塗る霊が彼をエコノミー 的に去られたとはいえ、依然として彼は生む霊を本質的に持っておられました。 もちろん、これは二つの聖霊があるという意味ではありません。それは、一つの 聖霊に二つの面、すなわち本質上とエコノミー上の面があることを意味します。 本質的な面は、主イエスの存在、生存のためでした。エコノミー的な面は、彼の 働き、彼の務めのためでした。主イエスがわたしたちの罪のために十字架上で死 につつあった時、神は彼の中に本質的におられたという事実に、わたしたちは印 象付けられる必要があります。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、あなたがわたしの罪のために十字架上で裁かれていた間、生む霊の 神聖な本質は決してあなたを去りませんでした。わたしの罪のためのささげ物に なるために、油塗る霊が離れることにあなたが耐えてくださったことを、感謝し ます。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(三)」(1989年版)メッ セージ54から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。