聖霊とイエスの霊(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント15:45 ……最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。 2コリント3:17 そして主はその霊です。そして主の霊のあるところには、自由 があります。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 神の新約エコノミーは、主の受肉、人性、人の生活、死、復活、昇天を通して遂 行されます。聖霊とイエスの霊はこれらの事柄を含んでいます。これが意味する ことは、今や聖霊またイエスの霊と呼ばれるその霊が、キリストの受肉、人性、 人の生活、死、復活、昇天の総合計、究極的完成であるということです。わたし たちはこの聖霊とイエスの霊を持つ時、受肉、人性、人の生活、死、復活、昇天 におけるキリストを持つのです。 他の所でも指摘しましたが、復活の後、また復活の中で、キリストは霊なるキリ ストとなられました。霊なるキリストは、その霊と等しいです(1コリント15:45、 2コリント3:17)。イエスの霊でもある聖霊は、この霊なるキリストの総合計です。 霊なるキリストは、特定の要素から構成されています。すなわち、受肉、人性、 人の生活、死、復活、昇天です。全宇宙において、彼はこれら六つの資格を所有 しておられる唯一の方です。ですから、イエスの霊は、この資格付けられたイエ スの実際化です。イエスの霊は、そのようなすべてを含む方の総合計です。使徒 行伝第16章においてパウロと彼の同労者たちは、そのような霊、すなわちすべて を含むキリストの総合計であるその霊の導きの下で行動していました。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、わたしはその霊を持っているので、あなたであるすべてを持っている ことを、感謝します。わたしは自分自身には何の資格もありませんが、すべてを 含むキリストとしてのあなたご自身の総合計であるその霊を享受することができ ます。ハレルヤ、その霊はわたしの中におられます! アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(三)」(1989年版)メッ セージ44から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。