信仰にとどまる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 使徒14:21 ……彼らはルステラとイコニオムとアンテオケに戻り、(22節)弟子 たちの魂を確立し、その信仰にとどまるよう彼らに勧め、「わたしたちが神の王 国に入るためには、多くの患難を経なければならない」と言った。 使徒6:7 こうして神の言は成長し……そして大勢の祭司たちが、その信仰に従 うようになった。 ローマ16:26 この奥義は、預言者たちの書き物を通し、永遠の神の命令にした がって、すべての異邦人に知らされ、彼らを信仰の従順へと至らせるのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第13章43節では神の恵みの中にとどまるようにと信者たちに説き勧めましたが、 ここでは信仰にとどまるようにと懇願しました。信仰にとどまることは、神の恵 みの中にとどまることよりもさらに困難です。第6章7節と同じように、第14章22 節の信仰は客観的信仰です。それは、信者たちがキリストのパースンとみわざに 関して信じているものを指しています。キリストと彼の贖いのみわざに関する新 約の啓示全体は、神の新約エコノミーのその信仰と考えられます(ローマ16:26)。 もしわたしたちが信仰が何であるかを理解するなら、信仰にとどまることは恵み の中にとどまることより一層深い事柄であることを認識するでしょう。神の恵み の中にとどまるとは、三一の神を享受することです。しかし、わたしたちは信仰 にとどまるために、わたしたちの霊を活用して三一の神を享受する必要があるだ けでなく、わたしたちの思いを活用して新約の啓示、客観的な信仰の中に含まれ ているものすべてを学ぶ必要があります。今日、多くのクリスチャンは神のエコ ノミーに関する新約の啓示全体が何であるかを知りません。この事についての状 況は何と貧弱なことでしょう! もし客観的な信仰が何であるかをわたしたちが 知らないとしたら、わたしたちは確かにその中にとどまることができません。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、わたしが勤勉に新約の啓示を学ぶよう、わたしの中で働いてくださ い。主よ、わたしは信仰にとどまるためには、信仰とは何であるかを理解しなけ ればならないことを知っています。あなたとあなたのみわざに関するすべての事 柄を、わたしにはっきりさせてください。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(三)」(1989年版)メッ セージ40から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。