イエス・キリストは依然として人である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 使徒7:56 彼は言った、「見よ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられる のが見える」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 今日のあるクリスチャンたちは主イエスの人性を正しく信じないかもしれません。 何年も前にある人がわたしに告げて、「わたしは天におられる方としての主イエ スが、依然として人の性質を所有していることを信じません」と言いました。こ の人は、主はその復活の後、その人性を脱がれたと思っていました。そのような 人に対して、わたしたちはイエスの人性を宣べ伝える必要があります。 主イエスはその昇天にあっても依然として一人の人であることを、使徒行伝第7章 のステパノの経験が証明しています。ステパノが昇天された主を見た時、彼を一 人の人として見ました。マタイによる福音書第26章の大祭司に対する主の言葉は、 やはり彼が人性を持っておられることのもう一つの証拠です、「今から後あなた がたは、人の子が大能者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ 26:64)。大祭司は、主イエスが神の子であるかどうか尋ねていました(63節)。そ の答えの中で、主は神の子であることを承認されました。しかし、続けて昇天の 中で、また雲に乗って再来される時、彼は人の子であると言われました。こうい うわけで、主は十字架につけられる前、地上で人であられただけでなく、復活と 昇天の後にも、天にあって神の右においても人の子です。 使徒ヨハネの時代に、ある人たちは、イエス・キリストが肉体の中で来られたこ とを否定しました。このことについてヨハネは言いました、「すべてイエス・キ リストが肉において来られたことを告白する霊は、神から出ています。またすべ てイエスを告白しない霊は、神から出ていません。それは反キリストの霊です」 (1ヨハネ4:2-3)。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、あなたが天において依然として人であられるとは、何とすばらしい ことでしょう。わたしと同じ種類であられる方が、神の右におられます。人性に ついてのわたしの理解を引き上げてくださったことを感謝します。腐敗した人性 をこのような程度にまで回復してくださったことのゆえに、神に栄光を帰します。 アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(二)」(1988年版)メッ セージ27から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。