キリストは命である(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、実際であり、命であ る。わたしを通してでなければ、だれも父に来ることはない。」 ヨハネ10:10 ……わたしが来たのは、羊が命を得、しかも豊かに得るためである。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) さてわたしたちは、キリストがわたしたちの命であるとは何であるかを言わなけ ればなりません。命にはおのずから行ないがありますが、行ないは命に取って代 わることができません。行ないは命ではないことを、わたしたちは徹底的にはっ きりしていなければなりません。命は、決してあなたが力んで造り出すものでは ありません。命とはまさにキリストご自身です。多くのクリスチャンは、とても 力んで毎日あくせくし、疲れ果てています。彼らにとって教理は厳しく、人はへ りくだらなければならず、柔和でなければならず、愛さなければならず、赦さな ければならず、忍耐しなければならないのです。このような教えは本当に人を疲 れ果てさせます。彼らは、クリスチャンになるのは難しいことだと認めます。特 に、若いクリスチャンにとってはそうです。努めれば努めるほど、ますます難し くなります。兄弟姉妹よ、もしキリストが命でなければ、確かにわたしたちがす べての事を行なわなければなりません。しかし、もしキリストが命であるのなら、 わたしたちは何もする必要はありません。もう一度言いますが、命とはキリスト ご自身であって、行ないは命に取って代わることはできません。 神の子供たちの間の最大の誤解は、自分の力を用いて行なうことが命であると思 い、そうしなければ自分には命はないと思っていることです。しかし、わたした ちは知らなければなりませんが、もし命があれば少しも行なう必要はなく、すべ て自然に生かし出されるということです。考えてみてください。あなたの目はど うして見えるのでしょうか? あなたの耳はどうして聞こえるのでしょうか?  あなたの目は自然に見ることができ、耳は自然に聞くことができます。なぜなら、 それらには命があるからです。命はこのように自然なものなのです。 (月曜日に続く) ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、あなたは命です。わたしがクリスチャン生活をやめたくなる時、そ れはわたしが自分の努力によって疲れ果てているからであるということが、今わ たしはわかりました。あなたをわたしの命として取って、自然にあなたを生きる 経験と喜びを、わたしに与えてください。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第36巻「中心的なメッセージ」(1998年版)の「キリスト は道、真理、命である」第1編から引用されています。いずれも日本福音書房から 出版されています。