信仰の二つの面――客観的な面と主観的な面(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 2コリント5:7 (なぜなら、わたしたちは見えるものによってではなく、信仰に よって歩くからです)。 1ペテロ1:8 あなたがたは、その方を見たこともないのに愛しており、その方を 今、見ていないのになお信じており、言葉では言い尽くせない、栄光に満ちた喜 びをもって歓喜しています。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第2編) わたしたちが客観的信仰、すなわち神の新約エコノミーの内容についての言葉を 受ける時、自動的に主観的信仰がわたしたちの中に生み出されます。わたしたち は信じることによって客観的信仰に呼応します。これは、わたしたちが客観的信 仰を聞くことを意味します。そうすれば、わたしたちの内に主観的信仰が起こる のです。この主観的信仰は、信じるというわたしたちの行為です。 主観的信仰は、一度限りで起こるのではありません。その反対に、わたしたちが 信じ始めた時から、信じるという行為はわたしたちの内側で進行してきました。 なぜなら、クリスチャン生活は、信仰の生活、信じる生活だからです。毎日わた したちは信じる生活を生きています。わたしたちは、自分の見るものにしたがっ て生きません。わたしたちは、自分の信じるものにしたがって生きます。わたし たちの歩みは見えるものによるのではなく、信仰によるのです。 例えば、コロサイ人への手紙第1章27節は、キリストはわたしたちの中でわたし たちの栄光の望みであると言っています。わたしたちはこの言葉を信仰の中で受 けます。信仰によってわたしたちは彼の再来を信じます。信仰によってわたした ちは冠を待ち望みます。これらの事柄についてのわたしたちの語りかけは、全く 信仰によります。こういうわけで、信仰を持たない人たちは、わたしたちが言っ ていることについて全く理解することができません。彼らにとって、わたしたち の言葉は迷信的であるか、または無意味なものです。彼らはそれを信じることも 受け入れることもできません。この世の人々、未信者は、信仰がありません。そ の結果、彼らはわたしたちが言っている事やわたしたちの生活している道を理解 することができません。わたしたちの生活は、絶対的に信じる生活です。 (明日へ続く) ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、わたしはあなたを見たことがありませんが、わたしはあなたを信じ ます。そして毎日あなたはわたしの信仰を増し加えてくださいます。主よ、わた しは見るものによってではなく、信じるものによって生きることができることを 喜びます。ハレルヤ、わたしは信仰によって生きることができます。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・テサロニケ人への第一の手紙(二)」 (1986年版)メッセージ14から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。