もはやわたしではなく、キリストである ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ガラテヤ2:20 わたしはキリストと共に十字架につけられました。生きているの はもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。 そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのた めにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― わたしたちは、勝利を得る命はキリストであることを知っています。また、勝利 を得る命はわたしたちの中で生きておられるキリストであることを知っています。 問題は、どのようにしてわたしたちがこの勝利を得る命の経験の中へと入ること ができるかです。キリストはわたしたちの命となることを願っておられます。ま たキリストはわたしたちに勝利を得させることができるのです。しかし、キリス トはどのようにしてわたしたちの命となることができるのでしょうか? わたし たちは、ガラテヤ人への手紙第2章20節を見る必要があります。 わたしたちは、この節の初めの部分と終りの部分は見ません。この節の真ん中の 部分から見ていきます。この節にはすばらしい表現があります、「生きているの はもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。 わたしたちは、「もはやわたしではなく、キリストである」と言うことができま す。「もはやわたしではなく、キリストである」とは、何を意味するのでしょう か? これらの言葉は、勝利を得ることを意味します。これらの言葉は、この数 日間わたしたちが語ってきた勝利を得る命のことを言っています。勝利を得る命 とは、(1)もはやわたしではなく、(2)キリストです。これが勝利を得る命です。 「もはやわたしではなく」、「キリストである」かぎり、そこには勝利がありま す。「もはやわたしではなく」プラス「キリストである」ことが、勝利です。そ してすべての問題は解決します。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、わたしの目を開いて、「もはやわたしではなく、キリストである」 という事実を見させてください。わたしを導いて、「もはやわたしではなく、キ リストである」という実際と経験の中にわたしをもたらしてください。主よ、わ たしは今日わたしの生活の中でこの事を望みます。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第24巻「勝利を得る命」(1999年版)メッセージ第4編から 引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。