主の晩餐の意味 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ26:19 弟子たちは、イエスが命じられたとおりに行ない、過越を用意し た。(20節)夕方になって、イエスは十二人と共に食卓に着かれた。(26節)彼らが 食事をしていた時、イエスはパンを取り、それを祝福してさき、弟子たちに与え て言われた、「取って食べなさい。これはわたしの体である」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) この二つのこと(過越と主の晩餐)を比較してみましょう。イスラエル人は救われ てエジプトを脱出したので過越の祭りを守りますが、今日、神の子たちも救われ てこの世の罪悪から離れたので主の晩餐を食べるのです。イスラエル人には小羊 があり、わたしたちにも小羊があります。主イエスは神の小羊です。今日わたし たちはすでにこの世の罪悪から離れ、サタンの力を離れ、完全に神に帰されまし た。ですから、ユダヤ人が過越の小羊を食べるのと同じように、わたしたちは主 の晩餐を食べるのです。 主イエスは過越を守った後、「イエスはパンを取り、それを祝福してさき、弟子 たちに与えて言われた、『取って食べなさい。これはわたしの体である』。また 杯を取り、感謝をささげて、それを彼らに与えて言われた、『みな、それから飲 みなさい。これは、多くの人に罪の赦しを得させるために、今、注ぎ出されてい るわたしの契約の血である』」。これが主の設けられた晩餐です。 晩餐にはどのような意味があるのでしょうか? 晩餐とは、一日の仕事がすっか り終わって、家族が一緒にくつろいで取る食事のことです。それは、くつろいで 気楽に食事をし、安息の味わいに満ちているものです。神の子たちが主の晩餐に あずかる時にも、このような雰囲気があるべきです。そこで忙しくするのでもな く、これやあれをしようと思いめぐらすのでもなく、神の家の中で安息を享受す べきです。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、あなたはわたしを救い、解放してくださいました。それだけでなく、 あなたはわたしを神の家族の一部としてくださいました。主の晩餐の雰囲気は、 この甘い関係と平和に満ちた按配を映していることを、感謝します。わたしはあ なたの晩餐において、あなたご自身のものであるすべての人たちと共に安息を享 受します。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(一)」(1999年版) メッセージ第17編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。