キリストを神の奥義として知る ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ2:2 それは、彼らの心が慰められ、彼らが愛の中で結び合わされ、理 解力から来る全き確信のあらゆる豊富へと至るため、すなわち、神の奥義なるキ リストを知る全き知識へと至るためです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第2章2節の終わりでパウロは、「神の奥義なるキリストを知る全き知識」につい て言っています。エペソ人への手紙はキリストの奥義に関するものであって、そ れは教会、すなわちからだです(エペソ3:4)。このコロサイ人への手紙は神の奥義 に関するものであって、それはキリスト、すなわちかしらです。わたしたちがキ リストをわたしたちの救い主また主として知るだけでなく、また神の奥義として も知ることは、決定的に重要です。 すべてのクリスチャンは主イエスを愛しています。この事における彼らの間の唯 一の違いは、主イエスに対する彼らの愛の程度です。後退した信者でさえ、ある 程度、主を愛しています。わたしたちがどれだけ主を愛するかは、わたしたちが どれだけ主を知っているか、またどれだけ主に関して認識しているかにかかって います。例えば、一人の子供は、ダイヤモンドの指輪そのものよりも、それを入 れるために作られた小箱の方を評価するかもしれません。これが示していること は、どれだけ愛するかは、どれだけ評価するかによって決まるということです。 わたしたちは主イエスを知れば知るほど、そして主イエスを高く評価すればする ほど、さらに主イエスを愛するようになります。こういうわけで、わたしたちは さらに前進して、主イエスをわたしたちの救い主また主として知るだけでなく、 神の奥義としても知る必要があります。 もしわたしたちがキリストを神の奥義として知ろうとするなら、第2章2節で扱わ れたあらゆる事の全き経験を持つ必要があります。もしコロサイ人たちの心が慰 められ、愛の中で結び合わされるなら、その結果は、理解力から来る全き確信の あらゆる豊富になるでしょう。その理解力とは、疑いもなく神の奥義なるキリス トと関係のあるものです。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、あなたを愛します。そして主よ、日々わたしはあなたをさらに愛し たいです。このために、神の奥義としてのあなたご自身を知る全き知識と評価の 中へと、わたしをもたらしてください。あなたをそのようなすばらしい方法で知 ることの重要性を、わたしに見せてください。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・コロサイ人への手紙(二)」(1980年版) メッセージ18から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。