弟子たちに愛される ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病の人シモンの家におられた時、 (7節)一人の女が、極めて高価な香油の石膏の壷を持って、彼の所に来て、食卓に 着いておられた彼の頭に注いだ。(8節)弟子たちはそれを見ると、憤慨して言った、 「なぜこんな無駄遣いをするのか? (9節)これを高く売って、貧しい人たちに施 すことができたのに」。(10節)しかし、イエスはそれを知って、彼らに言われた、 「なぜ、その女を困らせるのか? 彼女はわたしに良いことをしてくれたのだ。 (11節)貧しい人たちは、いつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはあなたがた といつも一緒にいるわけではないのだから。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 主を愛した人たちの二人は、らい病の人シモンと、主の頭に油を注いだマリヤで す。らい病の人は、罪人を象徴します。らい病の人であるシモンは、主によって いやされたのに違いありません。彼は主に感謝し、主を愛していたので、主とそ の弟子たちのために自分の家で宴席を設けて、主の臨在を享受しました。救われ た罪人はいつもこのようにします。シモンは自分の家を開き、宴席を設け、主と 主を愛するすべての人を招きました。 弟子たちは、主にささげたマリヤの愛を無駄遣いであると考えました。過去二十 世紀を通じて、幾千幾万の貴重な命、心の宝、高貴な地位、輝かしい前途が、主 イエスの上に「無駄遣い」されてきました。そのように主を愛する者たちにとっ て、主は全く愛らしく、彼らのささげ物にふさわしい方です。彼らが主の上に注 いだものは、無駄遣いではなく、主の甘さについての香ばしい証しです。 11節で主は、憤慨している弟子たちに言われました、「貧しい人たちは、いつも あなたがたと一緒にいるが、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではな いのだから」。これは、わたしたちが主を愛して、主を愛する機会を捕らえなけ ればならないことを示しています。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、わたしはあらゆる機会を捕らえて、あなたとの親密で愛すべき接触 を持ち、あなたに対して自分自身をホームとして開き、自分の物質的な家を開い て、あなたを愛する人たちと共に宴席を設けたいと願います。あなたがわたしを いやしてくださったことを感謝します! わたしは感謝に満ちた、救われた罪人 です。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書」(1997年版) メッセージ第68編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。