神はすべての否定的なものをキリストの上に置かれる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― イザヤ53:6 ……しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(10節)し かし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいの ちを罪過のためのいけにえとするなら……(新改訳) 1ペテロ3:18 キリストも、罪のために、ひとたび苦しまれました。それは、義 なる方が不義なる者たちに代わって苦しまれたのであり…… 1ペテロ2:24 わたしたちが罪に死んで、義に生きるために、彼はわたしたちの 罪を、ご自分の体において、木の上で担われました。その方の打たれた傷によっ て、あなたがたはいやされたのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第3編) 四福音書によれば、主イエスが十字架上におられたのは正確に六時間でした。最 初の三時間、人々は多くの不義な事を彼に行ないました。彼らは彼を迫害し、あ ざけりました。しかし第六の時、正午に神が入って来られると、暗やみが全地を 覆って、第九の時、午後三時に及びました。この暗やみは、神が行なわれたこと です。主が人の迫害を受けておられた時、神は主と共におられ、主は神の臨在を 享受されました。しかし、初めの三時間が終わると、神は主を見捨てられ、暗や みが来ました。主はこれに耐えかねて、大声で「わが神、わが神、なぜわたしを お見捨てになったのですか?」と叫ばれました。 神が主を見捨てられたのは、主がわたしたちの身代わりとなって、罪を担ってお られたからです。イザヤ書第53章は、これは神がわたしたちの罪を主の上に置か れた時であったと啓示しています。正午から午後三時までの三時間に、義なる神 はわたしたちのすべての罪を、この身代わりの上に置き、彼をわたしたちの罪の ために義によって裁かれました。神が主を見捨てられたのは、この時間中、主が 十字架上で罪人であったからです。主は罪とさえされました。一方で、主はわた したちの罪(複数)を担われました。もう一方で、主はわたしたちのために罪(単数) とされました。ですから、神は主を裁かれたのです。これは絶対に義の事柄でし た。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 父なる神よ、わたしのすべての罪を担うために御子を遣わしてくださり、感謝し ます。彼は真に義なる方ですが、あなたはわたしの咎を彼の上におき、わたしの 代わりに彼を裁かれました。彼がわたしの身代わりであることを、わたしは何と あなたに賛美することでしょう。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(三)」(1997年 版)メッセージ第70編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版され ています。