祈り求めて信仰を得る経験 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マルコ11:24 こういうわけで、わたしはあなたがたに言う。あなたがたが祈って 求めるものはすべて、受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 へブル11:1 さて信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていな い事柄を確認することです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編の第3編) ある人たちが理解している祈りには二点しかありません。一点は、わたしは持っ ていないので、ひざまずいて祈るということであり、もう一点は、わたしは得た、 すなわち神がわたしに与えてくださったということです。しかし、その間にもう 一点、わたしたちが信じるということがあります。ある人たちはこれを知りませ ん。仮に、わたしが祈って腕時計を求めるとします。ある日わたしは、「神に感 謝します。神はすでにわたしの祈りを聞かれました」と言います。わたしの内側 では、得たことがはっきりしました。わたしは依然として両手に何も持っていま せんが、幾日かたつと腕時計は手に入るのです。腕時計があるかないかの二つの 点を見るだけでは足りません。第三の点があることを見なければなりません。腕 時計があることと腕時計がないこととの間に、もう一点、神が言葉を与えられた、 約束してくださった、わたしは信じた、わたしは喜んだ、があるのです。あるい は三日目になってやっと腕時計が手に入るかもしれません。しかし、霊の中では 三日前にすでに得ているのです。クリスチャンには、この霊の中で得るというこ とがあるべきです。霊の中で得たこの種の感覚がなければ、それは信仰がないと いうことです。 信仰があって物がまだない時は、賛美をもって神に思い起こしていただくべきで す。もしあなたの内側に「すでに受けた」という確信があるのであれば、どうし てまだ何かを求める必要があるでしょうか? 多くのクリスチャンは次のような 経験を持っています。すなわち、祈り求めていったん信仰を得ると、もはや祈り 求め続けることはできないという経験です。彼らはただ、「主よ! わたしはあ なたを賛美します」と言うことしかできません。彼らは自分の信仰を保ちながら、 賛美する必要があります、「主よ! あなたを賛美します。あなたはわたしの祈 りを聞いてくださいました。あなたを賛美します。なぜなら、あなたは一か月前 にすでにわたしの祈りに答えてくださったからです」。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、わたしは祈る経験において、どのような欠陥も持ちたくありません。 どの祈りが答えられることにおいても、わたしはまず霊の中で確実に得たいので す。主よ、他の人がこのような真の信仰を経験できるよう助けてあげてください。 アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(一)」(1999年版) メッセージ第10編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。